【書評】このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法(著者: 北野唯我)
参考になった本があったので紹介する。
このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法
- 作者: 北野唯我
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2018/06/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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とある印刷機器を販売する会社で法人営業を専門とする青野(30)が、転職コンサルタント黒岩のコンサルティングを受け、転職を進めていくお話。
物語調で進行するのでサラッと読めた。
著者の北野唯我氏は株式会社ワンキャリアの執行役員(執筆時点)。
気になった部分について考察してみる。
人材のマーケットバリュー
青野が黒岩の転職コンサルティングサービス(50万円)の契約を済ませたところから黒岩のレッスンが始まる。
「よし、質問を変えよう。君の給料はなぜ発生する?」
── 中略
「給料は、君が『自分』という商品を会社に売り、会社がそれを買うから発生している。あくまで売り込んでいるのは君なんだ。君はたまたま今の会社を選んだだけで、会社は君をたまたま買っている。つまり、雇用とはひとつの『取引』なんだよ。マーケットバリューを理解するには、まず自分を商品として考えることだ」
まずは前提の確認。
自分は商品なので、その商品を会社が(法律の範囲内で)どう使おうが勝手である。
商品の運用方針は社長の思想が色濃く反映される。(そもそも「思想」を持っていない社長も多いが...)
「マーケットバリューは①技術資産、②人的資産、③業界の生産性の三つで決まる。」
「キャリアとは20代は専門性、30代は経験、40代は人脈が重要なんだ。」
補足すると「技術資産」は専門性と経験に分けられる。
専門性とはエンジニアリングや営業、マーケティング、人事等、職種で得られる技術のことである。経験とは「職種に紐付かない技術」のことで、例えば
- 子会社の経営
- 事業部長の経験
- 営業部門の立ち上げの経験
- マネジメント経験
- リーダーの経験
のことを指す。
また、人的資産とは人脈(= 自分が会社を変えたとしても仕事をくれる人間)のこと。
著者は
「専門性は学べば誰でも身に着けられるが、年をとるほど差別化しづらくなる。一方で経験は汎用化されにくい。よって20代は専門性、30代は経験で勝負すべきだ。」
としている。
また、40代になると人脈が重要になってくるということも言っている。
専門性で上に突き抜けるためには、生まれ持った才能やセンス、若い時の環境に大きく影響を受ける。
また上になればなるほど熾烈な競争になる。よって我々のような凡人はレアで価値のある経験を積み上げ、経験で勝負することが必要になる。
レアで価値のある経験をするためには、専門性がなければそもそも任せてもらえない(論理性やコミュニケーション能力がある前提)。
しかし経験上30名ほどのスタートアップ企業においては、論理性とコミュニケーション能力があれば専門性がなくともレアで価値のある経験を積めると思う。
(しかし成果を出すためには短期間で専門性を身につけ、大量の試行錯誤を積み重ねる必要がある)
業界の生産性と仕事の賞味期限
「商品としての自分」のマーケットバリュー(≒ 給料)は技術資産、人的資産の他に業界の生産性によっても決まる。
「伸びている産業で働くというのは、たとえるなら、上りのエスカレーターに乗って、上を目指しているようなものだ。とくに自分が何もしなくても、売上が1.5倍になったりするわけだからな。一方で、縮小している産業で働くのは悲惨だ。何もしなければ、売上が0.8倍になる。それを必死に防ぐために、下りのエスカレーターを速いスピードで逆向きに駆け上がらないといけないからな。」
「つまり、君のような人間、技術資産も人的資産もない人が会社を選ぶ際は実質二択だ。ひとつは①生産性がすでに高い産業。もうひとつは②エスカレーターが上を向いている産業だ。反対に絶対にダメな選択肢は、生産性が低くて、かつ、成長が見込めない産業で働くことだ。永久に豊かにならないからな。」
出版業界やブライダル業界などはまさに下り坂のエレベーターである。一方でネット広告業界、医療ヘルスケア業界等は上り坂だ。
下り坂の業界で働くと、特に営業、マーケティング、商品開発(エンジニアリング含む)などのプロフィットセンター部門は非常にシビアな目標やタイトなスケジュールを課せられ、毎日大きなプレッシャーを受けながら働くことを覚悟しなければならない。
「すべての仕事には明確に賞味期限がある。具体的にまず、①ニッチと言われる『イスの数は少ないが、替えが効かない仕事』から始まり、順番に②③に移行し、最後は④『イスも少なく、誰でもできる仕事』として消滅していく。これが仕事の『賞味期限』が切れる構造だ。」
ちなみに「イスの数」というのはそのポジションにおける「雇用の数」である。
この本では具体例がなかったので推察する。
例えば創業間もないベンチャー企業における営業の場合、最初は数名の営業マンがプロダクトを売ることで経営者は儲かることに気付き、営業をつづけることで企業は成長していく。これが①のニッチフェーズ(書籍内の言葉)。
儲かることに気づいた経営者は営業マンをもっと採用しようとする。これが②のスターフェーズ(書籍内の言葉)。
このフェーズでは各営業メンバーが独自のやり方でやっているが、その中のメンバーの誰か、もしくは外部から新しく雇い入れた営業のマネージャークラスの人間が営業業務の型化を行い、誰でもすぐに売れるような営業システムや教育システムを組み上げる。
型化が成功すると、もはやスキルの高い営業マンを雇う必要はなく、スキルが無くても低コストの人材を大量に採用し、型にはめることで生産性を上げようとする。これが③のルーティンワークフェーズ(書籍内の言葉)。
さらに自動化、機械化できる仕事は徹底的にシステム化され、不要になった仕事消滅する。これが④の消滅フェーズ(書籍内の言葉)である。
先程の「レアで価値のある経験」にあたる仕事は、スターフェーズにおける型化、システム化の業務だろう。
経営者にとっては事業が儲かることがわかったタイミングで拡大と合理化が同時に行える人材は貴重だ。特にスタートアップのようなキャッシュが極端に限られており、急速な成長が求められる企業においては尚更である。
また、こうした業務は大抵のケースにおいてマネジメントを経験することにもなる。よって将来の部長候補に自然と道が開かれるため非常に魅力的な機会である。
しかしスターフェーズにおいては、マネージャー経験を求める従業員が相当数採用されるので、彼らとの競争に勝たなければならない。
社長がコミュニケーション重視型なのか、成果重視型なのか、安全運転重視型なのか、(他にもあるかもしれないが)見極めた上で仕事のアプローチ方法を考えよう。
まぁ、負けたとしてもスターフェーズにおける経験は積めるから、次の会社ではそこで得た経験を売り込みマネージャーになれる確率は高まるだろう。
この辺は運もあるが、転職の時には確認してから入るようにしたい。
組織のあれこれ
「いいか。組織にいると、給与は当たり前のようにもらえるものと勘違いする。そして大きな会社にいる人間ほど、実力以上の給与をもらっていることが多い。その中の多くの人間は、会社が潰れそうになったり、不満があると、すぐに社長や上の人間のせいにする。だがな、勘違いするんじゃない。君が乗っている船は、そもそも社長や先代がゼロから作った船なんだ。他の誰かが作った船に後から乗り込んでおきながら、文句を言うのは筋違いなんだよ。」
これはその通り。
いくら社長が仕事をしていなくても、人として最低であっても、法律を犯していても、従業員が会社に文句を言う筋合いはない。
それに文句を言ったところで社長など変わるはずもない。労力の無駄である。
従業員にとっては「つべこべ言わず成果を出す」か「嫌ならやめる」の二択しか持たない。
うまくいっていない会社ほど、視線が社内に向き、根拠のない噂や社内政治、同調圧力など人間の精神を殺す方向に向かう。つまり、人の道具として作られた会社が人を支配する。それがどうしても許せないから、破壊したい。ただ、それだけだ。
これもそのその通り。
社内の仕事に時間が大きく割かれる職場は危険だと思ったほうが良い。単純に、専門性または経験を身につける時間が減り、「成果を挙げた」という実績を得る時間も減るからだ。
黒岩の最後のレッスン ~Todo型とBeing型の人間~
個人的にはここが一番興味深かった。
黒岩の最後のレッスンは、以下の青野の切り出しから始まる。
「あれから、ずっと考えていました。でも好きなものが何なのか、考えれば考えるほどわからないんです。もちろん、『ある程度好きなもの』は見つけられました。音楽とか映画とか。でも、『どうしてもやりたいこと』まで考えると、見つかりませんでした。」
これに対して黒岩の回答─
「君はバカだな。どうしてもやりたいことがあるなら、そもそも今こんなところにいないだろ。重要なのは、どうしても譲れないくらい『好きなこと』など、ほとんどの人間にはない、ということに気付くことなんだよ。いいか?そもそも、君に心から楽しめることなんて必要ないんだ。」
「人間には2パターンいる。そして君のような人間には、心から楽しめることなんて必要ないと言っているんだ。むしろ必要なのは、心から楽しめる『状態』なんだ。」
2つのパターンは以下の通り。
- to do(コト)に重きを置く人間 ── 「何をするのか」で物事を考える。明確な夢や目標を持っている。(todo型)
- to be(状態)に重きを置く人間 ──「どんな人でありたいか」「どんな状態でありたいか」を重視する。(being型)
そして黒岩は言う ──
「実際のところ、99%の人間が君と同じ、being型なんだ。そして、99%の人間は『心からやりたいこと』という幻想を探し求めて、彷徨うことが多い。なぜなら世の中に溢れている成功哲学は、たった1%しかいないtodo型の人間が書いたものだからだな。彼らは言う。心からやりたいことを持てと。だが、両者は成功するための方法論が違う。だから参考にしても、彷徨うだけだ。」
「好きなことがあるということは素晴らしいことだ。だが、ないからといって悲観する必要はまったくない。なぜなら『ある程度やりたいこと』は必ず見つかるからだ。そして、ほとんどの人が該当するbeing型の人間は、それでいいんだ。」
「being型の人間は、ある程度の年齢になった時点から、どこまでいっても『心から楽しめること』は見つからない。だが、それでまったく問題ない。それは、何を重視するかという価値観の問題であって、妥協ではないからだ。being型の人間にとって最終的に重要なのは『やりたいこと』より『状態』だからな。」
この考えについて私は割とすんなり受け入れられた。私もbeing型だ。
todoのことを考えるとなんか自分が無理しているように感じてしまう。being型の人間が無理してtodo型のように振る舞うのは苦痛なのだ。
黒岩は我々being型の人間が好きなことを見つける方法も教えてくれる。
being型の人間が好きなことを見つける方法:
(1) 他の人から上手だと言われるが「自分ではピンとこないもの」から探す方法
(2) 普段の仕事の中で「まったくストレスを感じないこと」から探す方法
私は友達がそんなに多くないので(1)の方法はあまり役に立たなかった笑
私は物事の構造や仕組み、特徴、性質、因果関係等を理解するのが好きでそこには全くストレスを感じない。また、自分の理解を人に話したり、教えたりすることにも全くストレスを感じない。こうしたことは無理も誤魔化しも抜きに、ごく自然に「好きなんだな」と思える。
長々と書いたが、自分を確認する良い機会を与えてくれる良書だった。
転職しようとしている人やキャリアについての考え方の参考にしたい人、「好きなこと」が見つからなくて悩んでる人は是非読んでみて欲しい。
私たちはどこまで当事者意識を持つべきか?
今日は暴論を展開する。
私が20台後半の時に勤めていた、とある大手のIT企業では「当事者意識」が重要な価値観として会社のカルチャーに根付いていた。
私は当事者意識を持ち、職場にある様々な問題を発見し、周りが不平不満、文句を言う中、愚痴一つ言わずにそれらの問題の解決策を提案をした。
提案が受け入れられない場合もあったが、指摘された甘い点、不足している観点、答えられなかった論点を補強し、何度も提案を繰り返した。
私は上司から重宝された。彼らが手を付けない問題に切り込み、私が問題を解決するごとに組織は目に見えて改善された。
私は何事も自分事化して問題の解決に取り組んだ。そんな姿勢が評価され私はトントン拍子で昇進した。
成功体験にすっかり気を良くした私は、その後の仕事で当事者意識というものを重要視し、何事も自分で解決していこうという態度を強く持ち、部下や同僚にも求めた。
しかしその後、私は当事者意識の限界を知ることになる。
リスクとリターンと信頼
会社における立場が上になればなるほど、問題はチームで扱えるようなものではなくなり、経営や会社全体の問題となる。
問題が大きくなればなるほど、組織に対する影響は大きくなる。
影響が大きいということは、問題が解決できた時のリターンも大きくなるが、失敗した時のリスクや、解決策の副作用によるリスクも大きくなるということを意味する。
また問題解決策を承認するか却下するかの判断は、リスクとリターンの評価の結果決まる。
※1 効果が出るまでのリードタイムや必要な人員、実現可能性なども考えられるが、それらはすべてリスクに含めてしまおう。
※2 提案の承認がある会議体で行われ、かつその意思決定に影響を持つ人が複数人いる場合、意思決定者間の利害関係も意思決定に影響する。ビジネス上の意思決定は決して純粋なロジックだけでは決まらない。会社は無菌室ではない。
リスクとリターンの評価の結果、提案が承認される場合もあれば却下される場合もある。
承認されれば何も問題はない。そのまま突き進めば良い。きっと信念に裏打ちされた良い仕事ができるだろう。
しかし却下された場合は問題だ。当事者意識の高い人ほど、会社を良くしたいと思っている人ほど、却下された時のダメージは大きくなる。
結論が違うということは前提が異なっているか、前提が合っていても論理が異なるということだ。
しかし基本的には前提が間違っている事の方が圧倒的に多い。ほとんどの意思決定者は論理的である。
だから真面目で誠実、当事者意識の強い者は相手の前提を確認して、どの前提が結論の違いを生み出しているのかを探ろうとする。
しかし、リスクとリターンについては不確実なものなので、明確な真偽をつけたり、評価することはできない。そこには意思決定者の直感、経験、認知バイアスに大きな影響を受ける。
頭の良いあなたは意思決定者の認知バイアスに気付き、そのことを指摘するかもしれない。しかし多くの意思決定者はその指摘を素直に認めようとはしない。認めたような、指摘に感謝するような素振りは見せるかもしれないが、一度下した決定を変えることはないだろう。
また、単純にあなたがその仕事を任せるに足る信頼を獲得できていないということも却下される原因になり得る。問題が大きければ大きいほど、より多くの信頼を持った人間ではないと任せられないからだ。
こうした複雑怪奇な意思決定の裏側をハッキリと認識することは難しい。意思決定する側も一つの意思決定に対して提案者が納得するまで説明することは基本的にしない。したとしても本音かどうかはわからない。
それに時間もないし、他にやるべきことはある。
つまり「なぜ却下されたのか?」という根本的な原因を提案者が知ることは難しいということだ。
また、自分が出した案より優れた対案を却下した側が提案することも基本的には無い(あればまだ救いがある)。あなたほどその問題に対するスペシャリストはいないのだ(逆にそのくらいでなければ当事者意識があるとは言えないだろう)。
こうなった場合、提案者はどうすれば良いだろうか?
任せてもらえるまで信頼を積み重ねるべきだろうか?
問題を放置することのリスクが大きくなるまで待つべきだろうか?
(自分が全く信じていなかったとしても)意思決定者の気持ちを汲み取って別の提案すべきだろうか?そしてそれを実行すべきだろうか?
この場合、意思決定者の好きなように提案することの意味はなんだろう?既にやるべきこと、そのやり方、使える予算、使える時間、人員、撤退条件等々に関して、既に意思決定者の中で結論が出ているのであれば、私たちが提案する意味は無い。それを意思決定者がそれを従業員に指示すれば良いだけだ。
「当事者意識なんて要らないんじゃないか...」
こんな思考が提案者の頭をよぎる。
また「権限委譲」とは本来こうした問題に対処するべく行うものだ。責任と権限を与え、その中で好きなようにやる権利を経営者以外の人間に与えるのだ。
しかし権限委譲は難しい。厳密に権限と責任を定義できている企業など(多分)ほとんど無いし、ある程度できていたとしてもグレーゾーンは残っている。
例えば、使える予算や時間などはビジネスの状況に応じて刻々と変わるものだ。ドキュメント化できるものではない。
価値観、好き嫌い、尊敬
こうした思考の中で、提案者は「意思決定」に絡む不確定要素を目の当たりにする。
権限委譲も無い、重要な前提もわからない、意思決定はロジックだけではなく社内の人間の利害関係、感情も絡む。
こんな中で当事者意識を持って問題の解決策を提案するということは、どういうことなのだろうか?
それは意思決定者が単純に好むことを提案することに等しいのではないか?そこに個人の考え、信念など持ち込むスペースなど無いのではないか?
しかしこうした論理や利害関係だけが問題ならまだマシだ。
問題は「好き・嫌い」や「価値観」などの根源的な部分に関する違いを認識してしまった場合にある。
好き・嫌いという極めて根源的な部分に関しての違いを認識してしまった場合、どうすれば良いのだろうか。
例えば、仕事やコミュニケーション、目標に対するスタンス、その人の性格、誠実さ、価値観...。これらに共感できない場合どうすれば良いだろうか?
あなたは嫌いな人、尊敬できない人のために、その人が「好む」提案をし続けなければならないのだろうか?
好きなこと、できること、役に立つことが交わる部分を仕事にしようとはよく聞く。
また、嫌いなこと、できないこと、役に立たないことではない部分を仕事にしようということもよく聞く。
しかし、根本的に尊敬できない人に奉仕するということ、あるいは納得できない意思決定を受け入れて仕事をすることは割り切るということであり、それは当事者意識を持たない領域を持つということである。
しかし「当事者意識を持て」という人間はこうした矛盾を理解していない。
そして当事者意識を強く持つ者は、こうした矛盾を前に途方に暮れてしまう。
しかし会社で働く上でこうしたことは当たり前のように起きる。
こうしたことに文句を言うのは、ボクサーが顔を殴られることに文句を言うのと同じくらい馬鹿げている。「好き嫌いで仕事をするな」ということである。
もしこうしたことが嫌ならば、自分で会社を作るしか方法は無い。
仕事に対して絶対的な価値観が必要である
こうした思考を経て我々が考えなければならないのは、「何を拠り所に仕事をするべきだろうか?」という問いである。
それは、どんな状況下にあってもその中で最大のパフォーマンスを追求するような徹底的なプロフェッショナリズムでも良い(割り切り型)。
逆に、どんな状況下にあっても自分の信念を貫く圧倒的な当事者意識でも良い(割り切らない型)。
回避不可能な矛盾や理不尽に挑み、今後も働き続け結果を出すためには、何かしらの拠り所となる価値観が必要だ。
考える人ほどいずれ問題に直面する。何かしらを拠り所にしなければ、辞める辞めないの瀬戸際に立たされた時、自らが納得した判断を行うことはできない。
── 私にとっての仕事における絶対的な価値観とは何か?
私はまだ答えが出せないでいる。
起業におけるアタリマエの話(b2bビジネス)
最近起業する人が増えている(遅っ)。
ということで、非常にシンプルで、アタリマエな起業を妄想してみた。
CEOとCTOがシードラウンドで3,000万円の資金調達に成功したところから始めよう。
彼らはB2B向けのSaaSを提供していて、1アカウントあたり月額1万円の料金だとする。
また細かいことは抜きにして、彼らの給与は50万円ずつ、オフィス賃料等その他の経費を含めて50万円だとする。つまり、毎月150万円が消えていく計算になる。
つまり20ヶ月後にキャッシュが尽き、倒産する計算である。
彼らのビジネスが存続するためには、20ヶ月以内にアカウント数(導入企業数)を150以上にする必要がある。
そうすれば収入と支出がちょうど150万円で釣り合うので、キャッシュが減ることはなくなる。
(細かいことは抜き)
この時、人を雇うことも、何かツール等を入れて経費を増やすことも、しない前提である。支出を増やせば、もっとアカウント数を増やさなければならない。
ちなみに最近のB2Bのビジネスでは、顧客獲得という仕事は以下のような役割で分担で行われることが多い。
(画像はこちらのWebサイトより引用)
左のハコから、マーケティング、インサイドセールス、フィールドセールス、カスタマーサクセスと呼ばれる部署が責任を持つ。
こうした分業体制で、見込み顧客の獲得、商談機会の獲得、契約の獲得、顧客維持・アップセルといった目的を達成するべく業務が実行される。
(ちなみに、The Modelのもともとのアイディアは米SiriusDecisionsのDemand Watterfall Modelらしい)
重要なKPIは以下の通りである。
- 見込み顧客獲得数
- 商談機会獲得数
- 受注数
- 解約率(その月の残存アカウントのうち何%が契約解除するかを表す率)
仮に、解約率を2%とすると、このビジネスでは毎月10アカウントの受注を獲得することにより、約19ヶ月目に単月黒字となる。またその時の残存キャッシュは1,680万だ。
だがしかしこれは大変な成果だ。
というのも、立ち上げたばかりのWebサイトに流入なんぞ無い。CEOはテレアポが日々のメイン業務となるだろう。その他に展示会に出たり、セミナーをやったり、Web広告を出向したり、記事を書いてブログにアップしたり、SNSで頑張ってフォロワーを増やす等々の活動を行い、なんとかして見込み顧客を獲得しなければならない。
(コストのかかる施策はROIの算出が面倒なので今回は語らない)
仮に、100件の見込み顧客(b2bマーケティングでは「リード」と呼ぶ)を獲得したとしても、その中から商談の機会が得られるのは、ほんの僅かだ。
リードの質(自社のプロダクトで解決できる課題を抱えており、顧客にとってその課題の社内優先順位が高いような、まさにNowな顧客は質が良いとされる。)にもよるが、テレアポなら良くて2%~3%だろう。
仮に、3%の商談が実現できたとしても、3件の商談機会の獲得だ。そこから受注率が30%だとすると、100件のテレアポで1件の受注が取れるかどうか、といったところである。
仮にCEOが一人でテレアポを頑張るものと仮定する(別に他の手段でも良い)。
1回の電話時間が10分だとして、1時間に6コール、これを1日8時間やると48コールである。しかしCEOは一人で行わなければならない。だから1日8時間もできない。せいぜい5時間程だろう(相手の営業時間もあるわけだし)。
とすると、1日に30コールしかできない。20営業日で600コール、約6件の受注数が予測できる。
しかし毎月6件の受注だと、倒産は回避できるものの、単月黒字化するのは36ヶ月後である笑(その時の残キャッシュは648万円)
3年間テレアポ三昧で過ごすのは修行僧よりもタフな精神力が必要だ。
でも3年もあればCTOがより価値のある(高い値段で売れる)プロダクトを開発してくれるか、CTOがWebマーケティングをしてくれるなどして、より楽に単月黒字を達成できると期待するわけだが、多くの場合そんなことにはならない。
CTOをdisるわけではないが、高い値段で売れる商品を開発しなければいけない理由を認識していなければ、そもそもCTOはそんな開発しない。
(無駄に?)イケてるプロダクトの開発を好んで行うだろうし、より楽に開発ができるように開発環境を整えることに時間を使うかもしれない。そしてWebマーケティングなんて発想には到底ならない。
(ちなみにUXを高めることで解約率を1%に減らせたとしても、黒字転換のタイミングは6ヶ月早まるのみである。努力の方向が間違っている。)
このままでは厳しいと考えたCEOは、新しい営業マン(仮にAさんとする)を月給50万で採用した。
Aさんの能力がCEOと同じだと仮定すると、2人で月に1200コールで12件の受注を獲得できる計算となり、これは黒転時期を12ヶ月早めることになる。(その間CTOはUXを高めイケてるプロダクト開発に専念しているものとする。)
これに気づいたCEOがCTOをクビにして、新たな営業マンを採用するかどうかはさておき(ジョークです)、ここで言いたいことは、営業やマーケティングなどのプロフィットセンター(PCとする)の人員は、ノンプロフィットセンター(non-PCとする)の人件費プラスその他経費を上回る売上を創出しなければならず、それは思いの外難しく、リスクが高いということだ。
エンジニアとかバックオフィスの人員を採用しすぎてしまった場合など、各PC人員が創出すべき売上の額が高すぎる状態になってしまっては、取り返しがつかなくなるケースもある。(日本の法律では簡単に正社員を解雇することはできないからだ。)
このバランスが適切に保たれていなければ、まさに日本の年金制度のように若者(PC)に大きな負担を課すことになってしまうのである。
これ以外にも語ることは腐るほどあるのだが、こうした当たり前のことを考える風潮が今のスタートアップ業界にあるかと言えば、それは疑問である。
最近はVCがホイホイと金を出すようになっていて(筆者視点ではそのように見える)、起業家は楽観的になっている(筆者視点ではそのように見える)、バンバン人を雇い、バンバン開発を行い(「顧客に最高のUXを届ける!」みたいな文句が多い)、よくわからないツールをバンバン導入し、販管費がヤバイことになっているケースをよく見る。
その結果こんなことになるケースもある。
2017/10/06
2018/08/07
freeeのプランは現状以下の通りである。
(2019/3/6時点)
この記事の冒頭で仮定したプロダクトの利用料金は月額1万円である。(法人向け)freeeは最っも高い料金プランでもその約半分なのだから、毎月獲得しなければならない受注件数は単純に倍になる(最低でも)。つまり、PC人員の負担も倍になるのである。(細かいことは抜きで)
おそらくfreeeはわんさかnon-PC人員を抱えているだろう。それにもかかわらず、高い料金を顧客から得ることができていない。これではPC人員は他のすべての支出を回収する売上を上げることは至難の業である。
そしてそんな過酷な運命を背負った社内の営業マンは、誰に何を言われ、どんな日々を送っているのかと、想いを馳せることを禁じ得ない。
この累損を回収できるのはいったい後何十年後になるのか、そしてこの状況を把握していながら追加で資金を入れる投資家は何を考えているのか(まさかゴリ押しでIPOしようとしてる、なんてことないですよね...)私にはわからない。
が、非常に不思議な、原理原則に反しているような出来事が、現実に起きている気がしたのでこの記事を書いた。
今回はfreeeを例に挙げたが(freeeさんごめんなさい。)、これ以上に悲惨な状態になっている例はスタートアップ業界では腐るほどある。
この状況がアタリマエであるならば、なんとも恐ろしい業界である。
最後にPaul Graham氏のブログポストと、スタートアップ計算機を貼って終わりにする。
p.s. この計算機、成長率が入ってる。成長率を入れてしまうと「我が社はこんな感じでぐいーんっと成長するんです!まさにホッケースティック!」という(多くの場合理由なしの)余地を与えてしまうので、個人的には好きではない。
ソフトバンクグループ決算説明会を深掘る ~ AIは人の何を代替するのか ~
すでに旬は過ぎ去っているものと思われるが、2019年2月7日に『ソフトバンクグループ 2019年3月期 第3四半期 決算説明会』が開催されたので、それに関連する記事を書く。
この会は前半で主に持ち株会社としてのソフトバンクグループの財務に関する考え方の説明、後半でソフトバンクグループのビジョンについての孫氏の考え、というように構成されている。
今回は後半部分(下記動画の00:57:30辺りから)についてフォーカスを当て、孫氏の語ったことを少し深掘りしてみようと思う。
(※ 公式動画がスマホで再生されなかったため、Youtubeから拝借しました。)
後半部分の要約
100兆規模の巨大ファンドを運用する孫氏の根幹にあるビジョン、あるいは信仰をこの会の後半部分で垣間見ることができる。
しかも、孫氏のビジョンは後半開始からわずか約10分間に凝縮されている。
ソフトバンクは創業以来唯一つのことを毎日変わりなくやってきた会社である。そのたった一つのこととは『情報革命』である。
情報革命という何百年かに1回かの革命の中で、その革命の中でも10年に1回くらいの感覚で、パラダイムシフトの階段が着実に上ってきている。
我々は情報革命の中で、PCからスマートフォンまでのパラダイムシフトを経てきている。そしてその中で最も大きなパラダイムシフトが、まさに今出現してきていると考えている。それが『AI革命』である。
T型フォードが発売されてから5年で、馬車が9割を占めていたニューヨーク5番街の道のほとんどを自動車が占めるようになった。
AIによる自動運転の車が99台で、人が運転する車が1台。そうなると私は想っています。想うということがビジョンです。
『AI自動車のほうが事故を起こさない!だからそちらに移るのだ!』私は間違いなくそうなると断言できるわけです。そう信じているわけです。そういうビジョンを持っているわけです。それを持って我々は投資をするのです。
さて、ここまでが孫氏のビジョンの肝である。
今回はこのプレゼンテーションの中の、情報革命の中でいくつかあったと孫氏が紹介している各パラダイムシフトについて、少し深掘りしてみよう。
PCは何をしたのか?
PCはそもそもコンピューターである。コンピューターは端的に言ってしまえば、データを処理する機械である。
人間もデータを処理することはできる。紙に数字を書いて計算することで数字というデータを処理することができる。
しかしご存知の通り、コンピューターはこの処理を人間よりも高速に実行することができる。
またコンピューターの優れた点は、応用範囲が広いということだ。
あるデータが与えられた際に、人間が定義できる範囲内であれば、およそどんなことでも与えられたデータを処理することができる。
この処理はプログラムによって行われる。コンピューターはパッケージ化されたプログラムを、自身のデータ容量の許す限りインストールし、実行することができるのだ。
やや抽象的に表現すると、コンピューターとは『特定のデータをインプットとして、コンピューターにインストールされたプログラムで処理を行い、処理されたデータをアウトプットする機械』だ。
PCの発明により、それまで大企業しか所有し得なかったデータ処理装置が一般家庭に普及した。
これにより、個人レベルでもデータ処理が高速化にできるようになっただけでなく、個人でも好きなデータを好きなように処理できるプログラムが組めるようになった。
処理できるデータさえあれば、その変換方法(プログラム)は自由自在である。
人々はこうしたコンピューターの力を得て、様々な革新的なプログラムを生み出した(私はその中でも特にExcelが革新的だと思っている)。そしてより任意のデータを、より高速に処理する能力を得た。
インターネットは何を可能にしたのか?
さてPCはデータ処理能力を普及させることで、我々のような個人でもデータ処理能力を持つことを可能にした。
ではインターネットは何をしたのだろうか?
インターネットが可能にしたものは、物理的に遠く離れたコンピューター同士の会話である。
コンピューター同士の会話は「リクエスト(依頼)」によって行われる。コンピュータはお互いにリクエストを送り合うことで会話している。
でも一体コンピューターは、別のコンピューターに何をリクエストするのか?
それは別のコンピューターが保有するデータベースに対する以下4つの処理である。
- データベース内に新しいデータを作成する (Create)
- データベース内の特定のデータを読み込む、または取得する (Read)
- データベース内の特定のデータを別のデータで上書き更新する (Update)
- データベース内の特定のデータを削除する (Delete)
これらの基本操作をそれぞれの頭文字を取ってCRUDと呼ぶ。
インターネットにより、あるコンピューターは別のコンピューターに対して(許可されている範囲内で)これら4つの操作を「リクエスト」することができるようになった。
Twitterでつぶやきを投稿すれば、それはTwitter社が管理しているコンピューター内に存在するデータベースに対し、あなたが投稿した文字列を新しいデータとして「作成(Craete)」するリクエストをしているのである。
※ ちなみに、リクエストする側のコンピューターを「クライアント」、リクエストを「サーバー」と呼ぶ。
この能力により、プログラムをわざわざ自分のコンピューターにインストールする必要がなくなった。さらに、インターネットに接続されたコンピュータであれば一般的に公開されているコンピューターの機能を誰でも使えるようになった。
私は自分のPCから、あるプログラムが既にインストールされている別のコンピューターに、インターネットを通じてリクエストを行うことで、ある特定の目的のために作られたデータの処理(プログラム)を使うことができる。それは私だけでなく、インターネットに繋がったコンピューターを持っている人間であれば、誰でも可能なことである。
PCが物理的なコンピューター(ハードウェア)を普及させたのに対し、インターネットはプログラム(ソフトウェア)を普及させたと言える。クラウドコンピューティングである。
スマートフォンは何をしたか?
スマートフォンは手の中に、ポケットの中に収まるコンピューターである。
これにより、コンピューターを利用できる物理的なシーンの制約を取っ払うことになった。
この小型化による物理的な制約の撤去は、スマートフォンだけでなく、IoTと呼ばれる動きからも見て取れる。
昔はコンピューターは大きなものであった。Wikipediaによると、世界初のメインフレームは1951年のUNIVAC I (UNIVersal Automatic Computer I)とされる。
物理的な観点におけるコンピューターは、PC、スマートフォン、IoTという流れに象徴されながら、現在進行系で小型化され続けている。今後もこの小型化の流れは続くだろう。
2018年に公開されたこの記事によるとIBMはブロックチェーン技術と通信モジュールが搭載された1mm x 1mmの世界最小コンピューターを開発中とのこと(しかも、1台10セントほどで売ることを考えているらしい)。たった70年程で凄まじい進歩である。
では、AIは何を可能にするのか?
AIはコンピューターの小型化の話ではない。
またAIは、インターネットが行ったような、コンピューター同士の会話に関する話ではない。
AIはプログラムの進化の話である。
今までのプログラムは「データを変換する」処理のことだった。これによって、人間はデータ処理能力を向上させた。人力でやっていたデータ処理はコンピューター上のプログラムによって代替された。
確かに、この流れも止まらないだろう。毎年いくつものベンチャー企業が生まれ、コンピュータによって特定の「データ処理」を代替するプロダクトをリリースしている。
しかし、これらのプログラムはあくまで「仕事の実行」を部分的に肩代わりしているに過ぎなかった。
これからのプログラムは、AIによってデータ処理、仕事の実行を代替するのではなく、人間の判断(意思決定)を代替するものだ。
人の行動は「決めること(意思決定)」と、「決めたことを実行すること」のみで成り立っているわけだから、このインパクトはでかい。
データ処理は人の行動の「実行」の一部を人間から代替し、今も実行を代替する範囲を拡大中である。たが、AIは人の行動の「意思決定」を人間から代替する。
なぜそれが可能か?
それは孫氏も言っているように、AIの方が良いからである。
人間が走行ルートを判断するよりも、AIがやった方が事故が少ない。良い!
人間が投資判断をするよりも、AIがやった方が儲かるしリスクも少ない。良い!
人間がクレジットカードの不正利用を判断するよりも、AIがやった方が確実。良い!
人間がおすすめのコンテンツを提案するよりも、AIがやった方が精度が高い。良い!
ということなのだ。
ここまででPCからAIまでの流れを見てきたが、以下の3つの時代の潮流があるように思う。
- コンピュータの物理的な小型化の流れ
- データ処理の適用範囲の拡大の流れ
- AIによる判断のリプレイスの流れ
孫氏は100兆ものファンドを組んで、AIによる人の判断のリプレイスを大きく前進させようとしている。そうしたビジネス判断、投資判断をしているのは、プレゼンテーションで孫氏が述べていたように、彼のビジョン、あるいは信念である。
実は、判断の前には人間の意思、信念、ビジョンが存在している。人間は「こうしたい」「こうした世界が良い」「世界はこうなる」というビジョンがあって初めて重要な物事に関する意思決定するのである。
現状のAIが判断しようとしているのは、あくまで機械的な、言い方によっては些末な判断である。(それでもビジネス的なインパクトは十分すぎるほどあるが...)
しかし私は今後、AIが人間の意思やビジョン、信念といったことまで代替するようになったら、どうなるのだろうかと妄想してしまう。
そこまでいくと、孫氏が行っている「ビジョンファンド」もAIが思いつき、実行することも可能になるかもしれない。そんなことは実現しないという意見もあるかもしれない。
しかし仮にそうなった時、人の存在理由として何を拠り所とすれば良いのだろうか?
「お前はどうしたいのか?」が問われている
人は誰しも自分が信じているもの(以下信念と呼ぶことにする)がある。
信念は仕事においては以下のような形で表現される:
- 我々は○○ すべきだ・しなければならない
- 我々は○○すべきでない・してはならない
- 我々は○○を××のようにすべきだ・しなければならない
- 我々は○○を××のようにすべきでない・してはならない
そして、多くの人は自分の信念と反する発言や行為を見ると嫌悪感を覚える。
この時、信念が強ければ強いほど、抱く嫌悪感も強くなる。
さらに、十分に強い信念に反する行為を他人に強制されると、人は激しく抵抗し、抵抗が無意味であるとわかると絶望する。
一方で、理解は信仰であるから、信念は物事を深く考えるほど強くなる。考えるほど対象に対する理解が深まるからである。
理解は高いアウトプットを出すためには深めなければならないが、時として危険なのだ。
また、我々にとって「働くこと」は何かしらの目的を達成するための手段である。
それは「収入を得ること」かもしれないし、「スキルや経験を獲得する」ことかもしれない。
その内容はさておき、我々は「働くこと」に多数の目的を持たせている。
なぜか?
仕事は1日の3分の1もの時間を使う。よって、そこにたくさんの目的を紐づけたほうが時間を効率的に使えるからだ。我々サラリーマンは戦略的なのだ。
しかしその目的が具体的で多目的なほど、目的の達成が阻害される可能性が高くなる。
なぜか?
「具体化」とは、目的にたくさんの制約や条件を付けることだ。だから「目的がより具体的である」とは、より厳しい条件があるということであり、より満たすのが難しいということだからだ。
そして人は目的を阻害されると嫌悪感を抱く。
その目的に対する想いが十分に強いと、嫌悪感は「嫌い」を超越して絶望に変わる。
我々サラリーマンは戦略的であり、成果にコミットする人種である。
だから1日という限られた時間の大半を費やす「仕事」からより多くの実りを得るために、仕事を多目的化し、それぞれの目的を具体化する。
また、日々の業務で高いアウトプットを出すために、対象について深く考え、試行錯誤し、より深い理解に到達するために日々励む。
しかし、そこには絶望という危険が潜んでいる。我々の努力は我々をより絶望へと近づけるのだ。
前提として、会社の目的は我々従業員の目的より優先され、また会社は個人に対して業務命令権を持っている。
会社は「やること(行為)」と「そのやり方(方法)」に関して自由に決めることができる。一方で、それらが個人の信念と合致しているとは限らない。
これはつまり、自分の信念と目的を侵犯することを無条件で会社に許可しているということである。
意思決定者の信念と自分の(強い)信念とが合致しなかったり、自分の目的を阻害する場合、会社の判断は個人を絶望させる。
これは恐ろしく感じてしまう。なぜなら私は結構頑張って考えちゃうタイプだからだ。
絶望は避けられないのだろうか?
仮に絶望しない人がいるとしたら、その人は信念を侵犯されても、目的を邪魔されても、朝ウンコする時のような精神状態を保つということである。
これは賢者のように思える。私には今のところ不可能に感じる。
仮に絶望してしまったらどうすれば良いだろう。
我々は奴隷ではないのだから、絶望から逃げることはできる。
しかし、絶望を乗り越えてでも得られるものがあるかどうかは、絶望を乗り越えてからでないとわからない。
絶望に際して我々は問われている。
「お前はどうしたいんだ?」と。
社長の仕事と仕事の遂行を阻害する要因
社長の仕事とはなんだろう?
まず会社には目的がある。その会社の存在理由である。
しかし会社の目的が何であれ「継続的に利益出す」という絶対的な必要条件を満たす必要がある。目的を達成するまでに会社を存続させる必要があるからだ。
「利益を出す」ためには人を雇い、その人を雇ったコスト(+もろもろのコスト)よりも多くの売上を立てなければならない。
そのためには適当にやっていてもダメだ。自分の強みと従業員の強みを理解し、それぞれが得意な(成果を出せる)仕事を割り当て、権限委譲する必要がある。即ち分業による生産性の向上を図るのである。なぜなら社長一人では目的を達成することができないからだ。
もちろん、顧客に圧倒的に支持されているプロダクトを提供し、高い利益率や高い顧客単価があればこうしたことはさして問題にはならない。
しかし大抵のプロダクトは(少なくとも初期段階においては)割と容易に模倣可能であり、そのプロダクトが模倣され始めると利益率も顧客単価も下がってしまう。
よって、高い利益率と顧客単価を維持し、継続的に利益を出すためには、かなり早い段階から模倣を防ぐ障壁を作らなければならない。
とすると結局の所、分業によって生産性を高く保つことが必要なのである。他者よりも生産性(成果/時間)が劣っていると、先行者優位などすぐに吹き飛んでしまう。
一方で利益を出すだけでなく、従業員をしっかり統率しなければならない。でなければ、従業員からの不満が噴出し、内部から組織が崩壊する恐れがあるからだ。
経営者の仕事は「対外的な仕事」と「対内的な仕事」に二分することができる。
対外的な仕事とは、ビジネス戦略であり、対内的な仕事とは組織マネジメントである。
ビジネス戦略に関しては以下の問いに答えなければならない。
- 我が社の目的は何か?何を達成せんとして会社組織として存続するのか?
- また存続しなければならない理由は何か?
- 上記の目的を達成するために中長期的に何を成し遂げるのか?
- それが模倣されないために何をするのか?
- 今期、何にどのくらいのリソースを投入するのか?
- それをどのくらいの期間で成し遂げるのか?
- 何を持って目的の達成と見なすのか? その判断基準は?
- 目的が達成できなかった時の撤退基準は何か?
- 誰がその仕事に責任を持つのか?その時の業務命令権と意思決定権は誰にあるのか?
- それらをどういったプロセスで実行するのか?
- ...etc(その他膨大な論点)
これらは即ち、ビジネスにおける目的と手段の構造を構築することであり、またその目的の達成基準や、達成までに与える期間、主たる責任者と責任者の保有する権限を定めることである。
組織マネジメントに関しては以下の問いに答えなければならない。
- 我が社の目的は何か?何を達成せんとして会社組織として存続するのか?
- また存続しなければならない理由は何か?
- 我が社に必要な人材は何か?どういった価値観や能力(資質)を持っている人間か?
- 価値観に合わない人間に対してどういった対応をするのか?
- 会社の従業員に対する責任は何か?従業員の会社に対する責任は何か?
- その時、双方が責任を果たしていると判断するための評価基準は何か?
- 経営陣および従業員が責任を果たせなかった場合どうするか?
- また、必要な人材を採用する時のポリシーや基準は何か?
- ...etc(その他膨大な論点)
組織マネジメントに関するこうした問いは、我が社の社員となる人の持つべき資質、その評価方法、もし資質が無いと判断された場合の対応策を定めることである。
もしこれらが遂行されなければどうなるだろうか?
ビジネス戦略に関する問いに答えられなければ、目的を達成できないどころか、目的を達成する上で絶対的な必要条件である「利益を出す」ことも(よほど強力なプロダクトを持たない限り)ままならないだろう。
というか、そんな状態ではビジネスにすらならない。目的を持たない大学のサークルと同じである。むしろ目的を持ってしっかりマネジメントされた大学サークルの方がマシな場合もある。
組織マネジメントに関する問いに答えられなければ、仮にビジネス戦略がしっかりと定義されていたとしても、それを遂行するのは困難だろう。
なぜなら、ビジネス戦略を実行するためには経営者だけでは無理だからである。つまり従業員の力が必要であり、その従業員に成果を出してもらうためには、彼らに納得感を持って働いてもらわなければならないからである。
もしそれに失敗すれば、従業員から期待する成果を得られないだけではなく、従業員の不満が噴出し、内部から瓦解することであろう。もしウィンプが多数派を形成したら経営陣はSlack上で言論によるリンチを受けるだろう。
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社長にしかできない仕事
対外的な仕事も対内的な仕事も、その大半は(適切な人材が確保できれば)委譲可能である。
しかし会社の根本にある価値観、目的だけは社長が決めなければならない。全てはそこから始まり、その前提がなければ組織は前に進むことができないからである。
またその価値観や目的は社長個人の信じるもの、即ち信仰であり、宗教である。
なぜなら、理解、前提、問いに対する解、これら全てが信仰によって決まるからである。
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つまり、社長の最も重要な仕事は会社という宗教団体の前提となる教義(Doctrine)を策定し、それを組織に徹底的に根付かせることである。
これはつまり、会社が受け入れる価値観と排除する価値観を決めることであり、ビジネス上やっていいことと、やってはいけないことを決める(選択する)ことである。
そこに嘘も誤魔化しもありえない。
ましてや外部のコンサルタントにビジョン・ミッション・バリューを決めてもらって、できあがったものに自己満足するなど論外である。(はあちゅうやイケハヤの方がこの点マシである。)
(※ 筆者が前に所属していた会社のビジョン・ミッション・バリューは外部のコンサルタントと社長が適当に決めたものであり、組織には根付いていなかった。さらに、会社の入り口に掲げられていた大きなビジョン看板には誤字脱字が存在していた)
もし社長が会社の教義を決められないのであれば、「我が社においては法的に許される限り金儲けが全てである」というような、一般的に批判される価値観でも立てた方が数段マシなのである。
なぜなら組織はその価値観に基づき、少なくとも前進するからである。
しかしこうした価値観を決めて、組織に根付かせることができる社長はほんの一握りだ。
少し真面目に考えてみよう。
社長が物事を決められない要因は何だろう?
仮説その1 ~ 批判が怖い ~
人は誰でも人の目を気にする。なぜならば批判が怖いからである。
それは社長も例外ではなく、というかむしろ社内の人間の中では、社長が最も批判の矢面に立たされる存在であるから、批判を避けたいと感じる傾向は強い。
他人からの批判などただの慣れである。また、批判が来ても大丈夫なように考えて論理武装をし、自らの主張を表明するわけであるが、大抵の人は慣れていない。大勢からバッシングされた経験など、ほとんどのベンチャー企業の社長は持たない。
そして、自分は可愛いものであるから、批判はできれば避けたい。
こうした自己愛による抵抗感で決めることができないケースもある。
物事を決めるということは、受け入れないことを決めるということである。よって決断には少なからず反発が生まれ、批判に変わる。
社長は批判を受け入れることができる度量を持った人格者でなければならない。
嫌われる勇気を持とう(適当)
仮説その2 ~ アジャイル教徒 ~
社長が意思決定を先延ばしにする理由としてよく使われるのが『アジャイル』という最強のご都合主義的パワーワードだ。
「とりあえずまずやってみよう!じゃないとわからないよ!」
こうしてとりあえずやってみるものの、絶対に振り返らないし、最終的に決定もしない。
そもそも、マーケティングなんかの施策ならまだしも、会社の教義などアジャイルするものではない。またアジャイルという言葉の生まれた背景や意味も理解していない。
殆どの場合、ただなんとなく「みんなが良いと言っているから」程度の理解のもと、大して考えもせず使っているだけである。
アジャイルという言葉には気をつけよう。
というかこれはアジャイル以前に、単なる思考能力の欠如である。
要因その3 ~ 日々の業務のことしか頭にない ~
上記に挙げた2つの要因は、社長が決めるべきこと、自分のなすべき仕事を認識している場合にのみ有効である。
というかほとんどの社長はビジネスを伸ばすことや現場を回すことに集中していて、より上段で決めておかねばならないことを認識していない。(ビジネスを伸ばさないと資金調達できず死ぬからである)
そして、順調にビジネスが成長し社員数が増えてきた時に、実は自分が運営してきたのが会社ではなく、動物園であったことに気が付く。 従業員たちが喚き出すからだ。
「うちの会社はどこに向かっているんだ?わからない!」
「こんなものは、どこにでもあるただのツールではないか!こんなんじゃワクワクしない!」
「入社前のビジョンなんて嘘っぱちではないか!現実的な戦略を立てろ!」
「評価制度に納得がいかない、何で俺の方があいつより給料が低いのだ!」
「そもそも残業代を払え!」
しかし会社が育ち、人が増えてからの教義策定には痛みが伴う。
価値観に合わない人間を排除しなければならないからだ。
また策定した教義から生み出される人材評価制度の基準を満たさない既存のミドルマネージャーも出てくる。(昔からいて業務を知っているという理由だけで存在するマネージャーにありがち)
しかし会社の教義は絶対だ。
一貫性を保つべく彼らを降格せざるを得ない。
退職に追い込むこともあるかもしれない。
しかし、そうすると業務が回らないので排除できない。
ミドルマネージャーを慕っているメンバーからバッシングを受ける。
今まで黙認していた善良なサイレントマジョリティまでもが、その露骨さ故に声を上げるようになる。
ここまで来るともう変えられない。更に動けなくなってしまうのだ。
ここまで書いておいてなんだが、これらの要因は些末なものに見えてきた。
要は前の記事に書いた「誠実であれ、思考せよ」ということに尽きるのだと思うわ。
つまり、しっかりと考えることに妥協しなければ、誠実になれるのです。
逆に誠実であれば、考えるべきことを放置したまま部下に依頼などしないでしょう。部下が困るのはわかりきったことだからです。
つまり思考するが故に誠実になり、誠実であるが故に思考するのです。
よって、この2つは同義と言えます。
もちろんビジネスにはスピードが重要です。
考えてばかりで行動できない人は批判の対象になります。
考えていることを理由に行動しないのは、単なる甘えです。
しかし逆もまた然りです。
スピードを理由に考えることを放棄することも、やはり単なる甘えなのです。
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自己責任論者(マッチョ)の思考を妄想してみた
こと職場に限った話、自らの身に起きる全ての不利益は自分の能力不足が引き起こした結果、つまり自己責任です。
社内政治に負けて会社を追われても、誰かに裏切られて社内の評価が下がっても、仕事も予算も社内政治家に根こそぎ横取りされても、自分の能力不足にしか帰着しません。
社長のせいにも、上司のせいにも、部下のせいにも、同僚のせいにもなりえません。あなたが感じているその屈辱感は誰も肩代わりしてくれないからです。
人はこうした不条理(まぁ、大した不条理でもないですが)に直面した場合の反応として二択あるように思われます。
第一に、腐ってウィンプ化です。文句、愚痴、批判、陰口、罵詈雑言、なんでもござれです。
対局として、今後一切を不利益を自分の能力不足のもたらす結果であると固く誓い、それらを二度と起こさないような対策を本気で考え防衛策を展開する、いわゆるマッチョ化です。
さて、そうしたマッチョの視点で、彼の所属する社員数50名のスタートアップを見るとどのように映るでしょうか?
まず目に付くのは、会社のあらゆる問題を認識しながら、これと言って具体的な解決策を提案するわけでもなく、「戦略がないですね〜」とか「うちの会社ってどこに向かってんだっけ〜?」といったウィンプ達によるチャット上のネガティブコメントです。
しかもあろうことか、本来であれば経営陣をサポートするべき立場にあるミドルマネージャーがその議論を煽動しているではありませんか!
またマッチョは、こうした会話を目にすることで、真面目に仕事をしている部下のモチベーションが下がっていることを確認します。
ウィンプ同士グループになることで、オープンな場でネガティブな発言をする障壁が下がり、会社批判だけでなく、他の部署の行った仕事に対し、巧妙にネガティブなニュアンスを混ぜ込んだ質問を投げかけています。
マッチョの目にはウィンプ達が群をなし、ネガティブ要素をばら撒き、他の善良な従業員のパフォーマンスを下げているように写ります。
これは敬虔な自己責任教徒であるマッチョにとって許しがたい行為です。
「あなた達は問題を認識しながら、それについて何か行動を起こしたのですか?経営や上司の文句を言うならせめて提案の一つでもしてからにしてはいかがですか?」
と、紳士的かつ教育的なコメントをチャットに打ち込み、感情のまま正義の鉄槌を下そうとしますが、あと一歩のところで手を止めます。
そして冷静になり、自らに問いかけます。
「なぜ彼らはこんなに毎日毎日飽きることなく文句を言っているのだろうか?」
マッチョは考えます。仮説的推論で原因を挙げていき、ある結論に至ります。
これは経営陣と一部のミドルマネージャーが無能なのが原因だ。
よくよく考えて見れば、経営戦略や会社のビジョンを決めるのは経営者の仕事だ。
そして、我が社には明確な経営戦略もビジョンも策定されてはいない。
よって、経営者は仕事をしていない!
対偶によって結論の導出します。
チャットの目立たない部屋でコソコソ文句を言っているウィンプ達は許しがたいが、彼らの気持ちもわからんでもない。
提案しようにも彼らにはその能力はないし、仮に提案したとしても今の経営陣は耳を貸さないだろう。
そして、経営陣は本来やるべき仕事を遂行していないのだ。そりゃ文句も言いたくなるものさ。だってそれがウィンプだもの。
彼の中でフォーカスすべき論点が定まります。
「無能なウィンプたちをどうするべきか?」
「無能な経営陣をどうするべきか?」
対ウィンプ策に関して、彼は一つの事実に着目します。
── 経営陣は会社の戦略だけでなく、人事評価制度やビジョン・ミッション・バリューの策定も行っていない
であれば、経営陣に働きかけ「バリュー(価値観)」だけでも決めてしまおう。
そして、何もしていない人事責任者の代わりに自分が評価制度を設計し、先に決めたバリューを評価項目に組み込んでやろうではないか。
彼が評価制度に組み込む価値観はもちろん 自己責任 という正義の価値観(宗教)です。
そうすれば評価制度を通じてウィンプは駆逐されるに違いない。
居心地の悪くなったウィンプは黙るか、会社を去るだろう。
どうせ提案の一つもできない無能集団だ。自分たちがなぜ居心地が悪くなったのかすら気が付かないに決まってる。
よし。対ウィンプはこれでいこう。では、対経営陣はどうするべきか?
しかし彼はここで決断を迫られる。
経営者がバカで、傲慢で、仕事をしないのは、恐らくもう変わらないだろう。
そして仕事をしないクセに、他者の仕事を偉そうに評価し、その割には何も決められず、リソースを無駄遣いする悪癖も今後治ることはないだろう。
こうした無能な経営陣を「なんとかする」ことの意味とは、この会社にいる限り彼らを教育し続けていくということだ。そして教育を通じて、裏で彼らをコントロールするということだ。
それは私にとって何のメリットがあるだろうか?
また、それは私が本当にしたいことだろうか?
マッチョは悩みます。どう考えても今の経営陣は信頼にも尊敬にも値しないからです。
結果マッチョは会社を去ることにしました。信頼、または尊敬できる経営者を求めて──
しかし、彼が信頼できる経営者を見つけることができるのかはまた別のお話。
私が転職する際に必ず確認するたった一つのこと
転職の時、会社を選ぶ基準は多々存在しますが、我々サラリーマンは何を重要視すべきでしょうか?
- 年収?
- 仕事の内容?
- ポジション?
- 成長できる環境?
- 身につけたいスキル?
- 獲得したい実績?
- やりがい?
いいえ、違います。
上記に挙げた要素は二次的なものです。もっと重要視すべき要素が他にあります。
前提として、そりゃーみんなやり甲斐のある仕事がしたいです。その仕事を通じてスキルを獲得し、成長したいです。その仕事ができるポジションを得たいと思います。また、そのポジションや責任に見合った報酬が欲しいと考えています。
しかし転職の際に考慮すべき最重要要素は、そこで働く「人」です。ポジションとか、スキルではありません。
なぜか?
人は信頼できる、または尊敬できる人と働くことで自分のフルパワーを発揮できることができるからです。
我々は信頼できる人間と協力し、お互いの欠点を補いながら、身も心もフルパワーで働くことで、新たなスキルを獲得したり、成果を出すことができるのです。
そうなれば自然と年収は上がるでしょうし、魅力的な仕事も必ずついてきます。
これは「環境に左右される」という意味ですので、プロフェッショナルとしてはあるまじきことです。しかし、環境に全く左右されないプロフェッショナルは転職の条件をいちいち気にする必要はありません。どこでもいいから転職して、成果を出し、出世街道を駆け上がれば良いのです。
逆に他の全てが満たされても、「人」が満たされない限り充実したサラリーマンライフを手に入れることは絶対にできません。
やりがいがあり、スキル獲得ができそうであり、成長機会が豊富にあると思われ、十分に魅力的なポジションと報酬を提示されたとしても、その職場に信頼できない人ばかりで、彼らが多数派を構成していると、給与やポジションと言ったの理想の条件は全て幻だったことに気がつくでしょう。(多分入社2-3ヶ月目あたりで)
あなたを真に待ち受けているのは、そんな理想の仕事ではありません。腹の探り合いの場と化し、誰も本音を話さない会議や、仕事しないのになぜか評価される人間の横暴なコミュニケーション、社内政治力で実質的な評価が行われるが故に、顧客に向き合う代わりにひたすら社内を向く、いいえ、向かざるを得ないような仕事です。
そして、そんな中でも頑張って成果を出したあなたを差し置いて、コミュニケーション力で場を支配したり、利害関係を調整することに長けた別の彼が先に昇進するのです。
ですので見せかけだけのピカピカ求人に騙されず、「その会社に信頼できる人が多数派を形成しているか」、この点を必ず確認するようにしましょう。
── 閑話休題
では信頼できる人とはどういった人でしょうか?
第一に誠実な人です。
これは特に上司に対して当てはまります。具体的に言えば「立場にモノを言わせない」人です。
そもそも前提として、(自分が社長でない限り)サラリーマンには上司が存在します。
上司自分の部下の仕事の内容、仕事のやり方について決める権限を持っています。彼らの成果はチームの成果で評価されるからです。
当然ですが、社長は全員に対するコントロール権限を持っており、社長の評価は会社の業績により決まります。
この権限は法的には「業務命令権」と呼ばれます。これは労働契約に含まれており、入社する前に労働契約に合意して入社しますので、我々サラリーマンは業務命令には従う義務があります。
つまり業務命令権を持つ人は立場にモノを言わせることが法的に可能です。
一方で人が仕事をするためには納得感が必要になります。それは、論理的にも、感情的にもです。納得していない仕事をワザワザ好き好んでやりたいと思う人なんていないからです。
しかしながら、業務を依頼する側の人間にとって、業務命令に対していちいち部下と合意形成し、納得してもらうのは非常に面倒になるケースがあります。
例えば「◯◯をして欲しい」という依頼を上司から受けた場合、「なぜその結論になったのか」、「その結論の前提は何か」、「その前提はなぜ正しいと考えたのか」、「またそれをやることの目的は何なのか」、等々について上司の考えを十分に理解する必要があります。なぜなら、そういった理解が不十分であると依頼者の目的を達成できなくなる可能性があるからです。
しかし、こうしたコミュニケーションは常にスムーズに行くわけではありません。依頼の前提が正しいのか、間違っているかについて両者の間に深い溝があることが明らかになる場合もあります。
なぜなら、前提とは理解であり、理解とは信仰だからです。
そうした溝をお互い感情的にならずに埋めていくプロセスは、時間もかかればお互いの心理的負担も大きいのです。特にその依頼が誰かの利害に影響を与えるものだと特に、です。
これは仕事を依頼する側としては非常に面倒です。
「つべこべ言わずに、指示通りやれ!」と言いたくもなります。法的にもそうした権利があるわけですから。そうしたマネジメントを是とする会社もたくさんあるでしょう。
また、どうしてもやらなければならない仕事があり、合意形成をする時間的猶予も無い場合もあります。
しかし、そうなった場合に「いいからやれ!」という方法もあれば、大切な前提を隠して本当の理由を言わずに誤魔化して乗り切る方法もあれば、
「十分な説明ができずに、すまない。しかしこれはやらねばならない仕事であり、それを行うのはあなたが適切だと私は考えている。だから今回はお願いできないだろうか」
という誠実なコミュニケーションを取る方法もあるわけです。
どういった方法を取るのかは、その人次第であり、人のスタンスは容易には変えられません。変わらないと思った方が良いでしょう。
── 業務命令権を持つからこそ、誠実である。
このことは「権限の誘惑と戦い、決して楽な道に流されない」覚悟が必要なのです。
しかし、会社において全社員が誠実なんてことはありません。そんな無菌室のようにクリーンな職場など存在しません。
己の目的のために誠実さを演出し、他人の信頼を獲得してはいるが、実際のところ何の誠実さも持ち合わせていない人もいます。またそういう人を見抜ける人もいれば、見抜けないで騙されてしまう人もいます。
そうしたカオスの中で我々は仕事をしています。
それを認めつつ、いや、認めるからこそ、私はこうした面倒なことを誠実さを持って行う人を信頼し、そして尊敬します。
そして、できればそのような方と一緒に仕事がしたいと思っています。
また、自分もそうありたいと考えています。
第二に考える人です。
実は「十分に考える人」というのは「誠実な人」であり、逆もまた真なのです。
なぜでしょう?
ある対象についての理解が十分深い場合、その対象についての誠実な説明ができます。
先程の業務依頼の例だと、
『前提として会社はこういった課題を抱えている。
その課題の優先順位はこのように考えている。なぜなら...だからだ。
そこで私は◯◯の責任者として、この課題を解決したいと考えている。
その課題の解決策としては、こういった手段があり、私はこういう理由でその中からこの解決策が良いのではないかと考えている。
そこで、この手段を実行したいと考えているが、その方法としてこういった作業分解をもとにやっていきたいと思っている。理由としては...だからだ。
そこで、あなたにはこの仕事をやってもらいたいと思っている。なぜなら...といった理由で、チーム内ではあなたが最も適任だと考えているからです。
どうでしょうか?』
十分に考えていれば少なくともこのくらいの説明はできます。
嘘が無ければ、こうした態度は誠実だと考えられます。
つまり、しっかりと考えることに妥協しなければ、誠実になれるのです。
逆に誠実であれば、考えるべきことを放置したまま部下に依頼などしないでしょう。部下が困るのはわかりきったことだからです。
つまり思考するが故に誠実になり、誠実であるが故に思考するのです。
よって、この2つは同義と言えます。
もちろんビジネスにはスピードが重要です。
考えてばかりで行動できない人は批判の対象になります。
考えていることを理由に行動しないのは、単なる甘えです。
しかし逆もまた然りです。
スピードを理由に考えることを放棄することも、やはり単なる甘えなのです。
誰も完璧ではない
「誠実である」ということは、非常に高い基準です。
もしかしたら、誰も誠実ではないかもしれないくらい高い基準です。
もちろん私も誠実さを完璧に実行できているとは思いません。
しかし、これは価値観の問題です。
この価値観を受け入れるか受け入れないかは、各々が選択できます。
それは「誠実であろう」とする意思があるかどうか、その道を選択するか否か、つまり各々のスタンスの問題なのです。
だからこそ、私はそこを確認するのです。
論理的思考とは何か【本編】
ビジネスマンにとって論理は商売道具です。
自分が普段道具の種類や詳細な仕様を把握し、意識的に使い分けることで、錆びついた論理が研ぎ澄まされます。結果として厳密さ、説得力、精密度を持った、切れ味の良い論理を展開できるようになります。
前編編では論理における明確な定義とルールについて、つまり論理というツールの詳細な仕様について説明しました。
salaryman-of-love.hatenablog.com
今回は本編ということで、本題である「論理的な思考とは何か」について説明します。
これは論理というツールの種類について説明です。使うツールの特性を理解し、正しく選択することで、自分の置かれている状況に合わせた論理を使えるようになります。
そもそも思考ではなく推論
「論理的思考」という言葉についての「論理的」という部分については前提編である程度下準備が整いました。
ここではもう半分の「思考」という部分について深掘りをしていきます。
結論から言うと、論理学においては「いくつかの前提からある結論を導く思考プロセス」を推論(Reasoning)と呼び、思考(Thinking)という言葉と明確に使い分けています。というか、思考という言葉は使いません。
論理学は前提から結論を導くプロセスにしか興味がないからです。
他方、我々ビジネスマンに取っても必要なのは推論です。
頭の中で展開される推論以外の思考プロセスは重要ではありません。
なぜなら、ビジネスにおいては意思決定と行動が全てであり、意思決定とはある前提にもとづいて「何をやるのか」「なぜやるのか」「いつやるのか」「誰がやるのか」「どのようにやるのか」などの論点ついての結論を出すことだからです。
3種類の推論
ということで、推論にフォーカスして説明します。
論理学から以下の3種類の推論方法を紹介します。どれも前提から結論を導く方法です。
- 演繹的推論
- 帰納的推論
- 仮説的推論
また、これら3つの推論は全て前提編で導入した「命題」によって構成されています。
それぞれ例を用いて説明します。
演繹的推論
以下が演繹的推論の例です。
[前提1] 全ての鳥は飛ぶ。
[前提2] ハトは鳥である。
-----------------
[結論] ハトは飛ぶ。
全ての文章が命題です。さらに最初の二つの命題は「前提」、最後の命題は「結論」になっており、前提から結論を導く推論になっています。
演繹的推論(演繹法)では、まず論理包含 p → q 「全ての鳥は飛ぶ。(もしXが鳥なら、Xは飛ぶ)」を持ってきて、さらにもう一つ p を満たす命題、この場合だと「ハトは鳥である。」を立てます。
その後、結論として q 「ハトは飛ぶ」が真であるというように議論を展開する推論方法です。
三段論法という言葉を聞いた方がいるかもしれませんが、これは前提が2つ、結論が1つで構成された演繹的推論の特殊ケースです。しかし演繹法においては、前提は二つでなくても構いません。
後でも説明しますが、この推論方法は前提となる命題が真であれば、必ず結論が真であることを保証する唯一の推論方法です。
この性質から、数学的な推論ではほとんどのケースで演繹法が使われます。
ちなみに「ほとんど」と言ったのは、数学では「数学的帰納法」という帰納的推論(次で紹介します)の数学的に認められているバージョンを使うこともあるからです。
帰納的推論
演繹法が一般的な前提から具体的な結論を導く推論方法なのに対し、帰納的推論(帰納法)は具体的な前提から、一般的な結論を導く推論方法です。(演繹法の逆バージョンです)
例を見てみましょう。
[前提1] ハトは飛ぶ。
...
[前提n] カラスは飛ぶ。
-----------------
[結論] 全ての鳥は飛ぶ。
この推論は、ハト, ..., カラスが飛ぶという前提から「全ての鳥は飛ぶ」という結論を導いています。
個別具体的な事象を前提に立て、より一般的な命題を結論に持ってきます。
つまり、帰納法では個別事象の共通要素を見つけて、抽象化しているのです。
先ほどの演繹法と違って、前提が全て真であっても、結論が正しいと保証されるとは言えないことがわかります。もしかしたら、飛ばない鳥が発見されるかもしれないからです。
対象を全て調べることが不可能であるという点が帰納法の結論が保証されないことの原因になっています。
演繹法の場合は前提が本当に真であるかが厳しく問われます。しかし論理包含 p → q によって建てられた前提が真であれば、p を満たすもの全てにおいて、必ず結論 q が真であることが保証されます。
この違いは演繹的推論とその他の推論の決定的な違いとなります。
仮説的推論
仮説推論とは、ある観察された事象を前提とし、そこからその現象が起きた原因を結論として立てる推論方法です。
具体的な例を見てみましょう。
[前提1] 道路が濡れている。
[前提2] もし雨が降るならば、道路は濡れる。
-------------------------------------
[結論] 雨が降った。(のではないか?)
これは直感的にはわかりにくいですが、論理構造を見ると演繹法に似ています。形式的に演繹法との違いを見てみましょう。
仮説的推論
[前提1] q
[前提2] p → q
----------------
[結論] p
演繹的推論
[前提1] p
[前提2] p → q
----------------
[結論] q
演繹法では、(前提の順番は違いますが)前提1で立てた命題は十分条件の p 「雨が降る」でした。しかし、仮説敵推論では観察した事象として必要条件である q 「道路が濡れている」を前提に置き、 十分条件 p 「雨が降った」を結論として導いています。
演繹法の観点から見ると p が真であることは保証されません。よって、仮説的推論も帰納法と同様に厳密性という観点においては演繹法に劣ります。この場合も誰かが道路に水を撒いた可能性があります。
しかし仮説的推論の価値は論理的な厳密性ではありません。
仮説的推論の強みは、観察された事実の十分条件を導くことです。
これは「この観察された現象は偶然ではなく、背後に何かの法則、または必然性があるのではないか?」と考えるきっかけになります。
例えば以下の例のような科学的な発見も、仮説的推論を使っていたのではないかと思われます。(実際にそうだったのかはわかりませんが…)
[前提1] リンゴが落ちた
[前提2] もし万有引力が存在するならば、リンゴは落ちる
----------------------------
[結論] 万有引力が存在するのでは?
[前提1] 太陽は東から昇り西に沈む
(定説としては太陽が地球の周りを回っているのだけれど...)
[前提2] もし地球が太陽の周りを回っているのであれば、太陽は東から昇り西に沈む----------------------------
[結論] 地球が太陽の周りを回っているのでは?
観察された事実の背後にある必然性に目を向け、仮設を立てることにより
[仮説] → [観察された事実]
と言う論理包含が構築されます。
もしこの命題が証明、もしくは十分な仮説検証ができれば、新たな前提を手に入れることができます。
その前提を元により蓋然性の高い推論である演繹法を展開することができるようになり、次の論理を発展させることができるのです。
ビジネスの基本は演繹法
ビジネスには「決めて」「行う」の2つの行為以外にやることはありません。
この2つの行為において論理的推論を行うのは主に意思決定、または意思決定を要求する提案です。
意思決定や提案においては演繹法がその他の推論に勝ります。
まず、仮説的推論は観測された事実に対する原因や背後にある法則についての推論です。起きた事象がなぜ起きたのか?こうではないか?背後にはこういった法則があるのではないか?というシーンで役立ちます。
しかし仮説的推論は、新しいことを始めたり、今やっていることを辞める提案をする際には不向きです。そもそも新しいことなので事象は観測できないからです。
また、今やっていることを辞める際には、観測された事象から「こういったことが原因で成果がでません」という主張をすることはできますが、これでは「じゃあ何すればいいの?」という質問に答えられません。こうした原因についての推論は、提案をする際の前提には使えますが、提案自体にはならないのです。
提案をするためには主張をする必要があります。
主張する際には様々な前提が真(らしい)と確認した上で、「こうするべき」という結論(主張)の形に仕立て上げます。これはまさに演繹法の論理展開です。
また、主張を作り上げる方法として帰納法も使えなくはないですが、「A社もXをやっている」「B社もやっている」, ..., 「N社も...」という論理には説得力がありません。
何故ならビジネスにおいてA社, B社, ..., N社、それぞれが自社と異なった前提や制約条件を持っており、それらを無視して語ることに(少なくとも私が関わってきた)意思決定者は納得はしないのです。
よって帰納法のこうした論理はあくまで演繹法を補助する役割にしか過ぎません。
提案の前に勝負は決まっている
しっかりとした演繹法を展開するためには、自社、顧客、競合、それらを含む市場環境やトレンド、社内の利害関係、マーケティングやセールスの行為そのもの、等々に関する深い理解が求められます。
これらに対する理解が不足していては、提案のキモになる前提が真であることに、意思決定者の合意が得られないからです。
なぜか?我々は自分の理解以上の主張は作れないからです。無理して作っても、理解不足を簡単に見抜かれてただ爆死するだけなのです。
ということで、提案とか、ロジカルシンキングなどの前に勝負は決しているのです。
私たちはより厳密な態度で演繹法を使うことにより、こうした事情を身をもって理解することができます。自分の理解以上の論理構築ができないことを悟ります。勝負にならないことを悟ります。
そのために理解をします。理解とは自分の中に信じられる前提を作ることです。そして確固たる前提は論理の基盤です。
理解から生まれる十分な前提が蓄えられた時に初めて、演繹法により強力な提案を展開できるようになります。
そうした提案に魂が宿るのです。
こちらもどうぞ。
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論理的思考とは何か【前提編】
ビジネスでよく使われる「論理的思考」という言葉があります。しかしその出現頻度の割には「論理的思考」がどういうものかの定義や、論理的思考の持つ特徴について詳しく語られているシーンは多くありません。
今回はそのあたりのモヤッとしたものをできるだけクリアにするべく前提編(本記事)と本編に分けてお届けします。
まずはWikipediaのロジカルシンキングのページに良い説明があったので引用します。
ロジカルシンキング(logical thinking)とは、一貫していて筋が通っている考え方、あるいは説明の仕方のことである。日本語訳として論理思考あるいは論理的思考と置き換えられることが多い。日本で育まれており、論理学に由来する考え方や、コンサルティング業界に由来する考え方に分かれる。
この記事では上記Wikipediaの説明における、前者、論理学に由来する論理的思考の考え方について説明したいと思います。
後者のコンサルティング業界に由来する考え方については、私自身コンサルタントの方が書かれたロジカルシンキングの本をこれまでに相当数読んできました。
が、未だに彼らの言う論理的思考がどういうものなのか十分に理解できずにいます。なので当分語ることはできないものと思っています。
この記事でカバーすること
この記事は論理的思考についての前提編です。「論理的思考とは?」という論点に対して解答するために前提となる以下の概念を説明します。
- 命題
- 論理演算子
- 真理値表
- 命題の証明方法
なんだか難しい言葉が並んでいるように見えるかもしれませんが、非常にシンプルな話なので最後までお付き合いいただければと思います。
命題 (Statement)
まずは基本となる「命題」という概念について説明します。
論理学的に正確ではありませんが、この記事では「命題」を真(True)または偽(False)のどちらか一方の値を取る文章と定義します。
この時、命題の取る(真か偽どちらかとなる)値のことを、命題の真理値(Truth Value)と呼びます。
以下の例は命題です。
- 私は人間である。
- カエルは人間である。
- 全ての人間は、生物だ。
なぜなら、上記の例は全て真偽のどちらか一方の値を取るからです。
常識的に考えると、最初の命題の真理値は真で、二番目は偽、三番目は真でしょう。
ここで感の良い方は気づいたかもしれませんが、命題の真偽を判定するためには、命題内で使われている言葉が不備なく定義(well-defined)されている必要があります。
しかし言葉を厳密に定義するのは、日常やビジネスのシーンでは限界があるため、この記事で定義に不備がない(well-definedである)ことを厳密に求めることはしません(私のさじ加減で、ある程度は求めます。)。
上記の例でも「人間とは?」とか「生物とは?」と問うことはできますが、厳密な定義ができるかというと、私には無理なので常識の範囲内で説明します。その分厳密さは落ちますが、まぁ問題ないでしょう。
次に命題ではない文章を紹介します。
- あっ!犬だ!
- まだ東京で消耗してるの?
- I am a voxellhe.
1つ目の例は命題ではありません。単純に真偽どちらも持ちません。
2つ目の例は疑問形です。この疑問系の「答え」はYESかNOを取ります。つまり真偽を持つと言えます。
なので2つ目は命題だと思われがちですが、「疑問系で表現された文章自体」の真理値を評価することはできません。よって命題ではありません。
3つ目の例は命題に見えます。しかし、命題内にある"voxellhe"という単語は私が勝手に作り上げた単語です。なので辞書に存在せず、意味がわかりません。
文章内の言葉の定義に不備があると、文章の真理値が真なのか偽なのかを判別することはできません。よってこの例も命題ではありません。
論理演算子 (Logical Connectives)
さて、命題について紹介しました。命題は論理を構成するための最小単位です。物質における原子のようなものです。
この章では命題をいくつかつなぎ合わせて、新しい命題を作る方法を紹介します。
ある命題と別の命題は論理演算子というものを使って組み合わせ、別の新たな命題を作ることができます。ここでは4つの演算子を紹介します。
4つの論理演算子
演算子名 | 言葉 | 記号 |
---|---|---|
否定 (negation) | ...でない (not ...) | ¬ |
論理積 (conjunction) | および (and) | ∧ |
論理和 (disjunction) | または (or) | ∨ |
論理包含 (implication) | もし...ならば... (if..., then...) | → |
仮に、p を「私は人間である」という文、q を「彼は人間である」という命題とした場合、上記の論理演算子を使うと以下のように表すことができます。
- ¬p = 「私は人間ではない」
- p ∧ q = 「私は人間である、かつ彼は人間である」
- p ∨ q = 「私は人間である、または彼は人間である」
- p → q = 「もし私が人間であるならば、彼は人間である」
※ p → q において、p を十分条件、q を必要条件と呼びます。
こうした論理演算子を含む命題を複合命題と言います(分子命題とも呼ばれます)。
また、論理演算子を含まない命題を原子命題と言います。
論理演算子は物質における電子みたいなものですね。
真理値表 (Truth Table)
さて、ここまでで命題の概念を説明し、2つの原子命題を論理演算子を使い複合命題を作ることができるという、言わば論理の形式についての説明をしてきました。
ここからは命題の正しさについての説明に入ります。
否定 (Negation)の真理値
否定命題 ¬p の真理値は以下のように定義されます。
pの真理値 | ¬pの真理値 |
---|---|
T | F |
F | T |
命題の定義から、命題 p の取りうる真理値は真(T)か偽(F)の2つのうち、どちらか一方のみとなります。
¬p の真理値は p が T の時には F 、p が F の時に T を取るように定義されています。
例えば、p が 「私は人間です」という原子命題の場合、¬p は「私は人間ではありません」となります。
この時、「私が人間です」が真である場合、「私は人間ではありません」は偽になるということです。
ちなみにこの表を真理表と呼びます。
また、複合命題の真理値から、その構成要素である原子命題の真理値を知ることができます。後で説明しますが、実はこの性質が非常に便利なのです。
¬p の真理値からわかること
- ¬p が真であることがわかると、p が 偽であることがわかる。
- ¬p が偽であることがわかると、p が 真であることがわかる。
論理積 (Conjunction)の真理値
論理積の真理値は次のように定義されます。
論理積は2つの命題で構成されますので、4つのパターンが存在します。
p の真理値 | q の真理値 | p ∧ q の真理値 |
---|---|---|
T | T | T |
T | F | F |
F | T | F |
F | F | F |
論理積 p ∧ q は p と q の両方が真の場合のみ真を取ります。
p,q のうちいずれか一つでも偽である場合、 p ∧ q は F になるように定義されています。
p ∧ q の真理値からわかること
- p ∧ q が真であることがわかると、p と q の両方が真だとわかる。
- p ∧ q が偽であることがわかっても、p と q の真理値については何もわからない。
論理和 (Disjunction)の真理値
論理和の真理値は次のように定義されます。
p の真理値 | q の真理値 | p ∨ q の真理値 |
---|---|---|
T | T | T |
T | F | T |
F | T | T |
F | F | F |
こちらは論理積とは逆のパターンで「p か q のどちらか一方でも真の場合、p ∨ q は真」を取るように定義されています。
p,q 両方が偽である場合は、p ∨ q も偽となります。
p ∨ q の真理値からわかること
- p ∨ q が真であることがわかっても、p,qの真理値については何もわからない。
- p ∨ q が偽であることがわかると、p と q の両方が偽だとわかる。
論理包含 (Implication)の真理値
論理包含 p → q の真理値は次のように定義されています。
p の真理値 | q の真理値 | p → q の真理値 |
---|---|---|
T | T | T |
T | F | F |
F | T | T |
F | F | T |
p → q は p が偽のときは必ず真というように定義されています。
p が真の場合には二通りの値を取りえます。
- q が真ならば、p → q は真
- q が偽ならば、p → q は偽
p が偽の時 p → q が必ず真になることについては直感的ではありません。この問題についての解説は補足の章で行います。
今はこの点については目をつぶり「p → q はこのように定義されているのだ」という理解をしていただければと思います。
※ 「p が偽の時には p → q が真であるとも、偽でもあるとも言えない」と思うのは私だけではないはず…。
p ∨ q の真理値からわかること
- p → q が真かつp が真とわかれば、qが真だとわかる。
- p → q が偽かつp が真とわかれば、qが偽だとわかる。
命題の証明方法
それでは、4つの論理演算が真であることの証明方法を見ていきます。
真理値表をまとめたものを記載しておきます。
p | q | ¬p | p ∧ q | p ∨ q | p → q |
---|---|---|---|---|---|
T | T | F | T | T | T |
T | F | F | F | T | F |
F | T | T | F | T | T |
F | F | T | F | F | T |
「¬p が真であること」を証明するためには、p が偽であることを証明しなければなりません。もう少し厳密に言うと、p の真理値が 偽(F) を取ることを証明することができれば、¬p が真(T)であることを証明できます。
「p ∧ q が真であること」の証明は p と q の真理値が真であることを証明すれば良く、「p ∨ q が真であること」を示すためには、 p と q のどちらか一方が真であることを示せば証明できます。
一方、「p → q が真であること」を証明するにはどうすれば良いでしょうか?
まず、p が偽の場合には「p → q は真」ですので、考慮する必要はありません。
残るのは (1) p が真で q も真の場合と、(2) p が真で q が偽の場合のみとなります。
この内、(2)の場合は「p → q」は偽ですので、「p → q が真であること」を証明する際には考慮する必要はありません。(もし、「p → q が偽であること」を証明したい場合はこのケースを考える必要があります。)
なので(1)のケースのみ検討すれば良いことになります。
つまり「p → q が真である」ことを証明するためには、p を真と仮定し、その上で、q が真であることを証明すれば良いことがわかります。
この証明は他の複合命題のそれとは明確に異なります。
論理包含の証明では、単一の命題 q が真であることを証明するだけで良いだけでなく、p が真であることを使うことができるのです。
p → q と他の命題について
私たちが論理的に物事を考えたい時には、何か未知の事柄についての結論を出したいという理由が背後にあります。
例えば、
- 「我が社は○○に注力すべきだ」
- 「宇宙には○○の法則がある」
- 「私は転職すべきだ」
- 「あいつは信用できる」
などです。論理包含は前提となる p が真であれば、q (未知の結論)を導出する力があります。
一方他の命題はどうでしょうか。
p ∧ q が真であったとしても、すでに q は真であるとわかっていることになりますので、q は未知の結論ではありません。
p ∨ q が真だとして、さらに p が真だと仮定しても、 未知の結論である q のが真なのかはわかりません。
この意味で、 p → q は強力なツールであり、数学において多用されているもこのためなのです。
以上ここまが前編です。
次回本編では、論理的思考とは何かについて論理学的な解答を紹介していきます。
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【補足】p が偽のときに、p → q が真になるのはなぜか?
さて、補足として上記の問いに私なりの解答をしたいと思います。
※ 本やネットで調べてもそれらしい答えはでてこなかったので、完全に私の推察になります。
p → q は「もし p ならば、q 」という意味だと本文で説明しました。
また、p → q の真理値表は以下の通りであるとも説明しました。
p の真理値 | q の真理値 | p → q の真理値 |
---|---|---|
T | T | T |
T | F | F |
F | T | T |
F | F | T |
p が偽(F)の時に、p → q が真になるのは多くの人にとって直感的に理解できないポイントでしょう(私も全くわかりませんでした)。
ここからは私の憶測ですが、この定義をした論理学者は、論理演算子に and, or, if-thenという名前(意味付け)をする前に、全てのケースを考えてみたのではないでしょうか?
というのも、p と q の真理値の組み合わせは、以下の通り全部で4通りあります。
- p = T, q = T
- p = T, q = F
- p = F, q = T
- p = F, q = F
また論理演算子は、これら4つのケースにおける真理値の組み合わせで定義されています。例えば、 p → q は上記の表の真理値の組み合わせで定義されています。
p ∧ q , p ∨ q , ¬p も組み合わせのパターンはそれぞれ異なりますが、真理値の組み合わせで定義されている点では同じです。
ここで、以上の4 パターンにおける真理値の組み合わせを全て列挙してみましょう。
かつ、直感的にわかりやすい箇所には、予め論理演算子を入れていきます。
それが下の表になります。全部で16パターン存在します。
※ (p, q) としています(左側が p の真理値、右側が q の真理値)
(T, T) | (T, F) | (F, T) | (F, F) | 論理演算子 |
---|---|---|---|---|
T | T | F | F | p |
F | F | T | T | ¬p |
T | F | T | F | q |
F | T | F | T | ¬q |
T | F | F | F | p ∧ q |
F | T | T | T | ¬(p ∧ q) |
T | T | T | F | p ∨ q |
F | F | F | T | ¬(p ∨ q) |
T | T | T | T | (1) |
F | F | F | F | (2) |
T | F | F | T | (3) |
F | T | T | F | (4) |
T | F | T | T | (5) |
F | T | F | F | (6) |
T | T | F | T | (7) |
F | F | T | F | (8) |
16パターンのうち8パターンは p, qそのものと、¬, ∧, ∨ だけで記述できました。
わからないのは(1)~(8)の部分です。しかし、8パターンのうち、4パターンは相方の否定で表せるので、わからないのは実質4パターンとなります。
では(1)とは何でしょう?このパターンは、p と q がどんな真理値であっても真を返す演算です。実際に使うことはあまりなさそうです。何か適当な記号を当てはめましょう。
p ○ q としましょう。
(2)は(1)の否定になりますので、¬(p ○ q)で良さそうです。こちらは p と q がどんな真理値を持っていても常に偽を返します。
では(3)はどうでしょうか?このパターンは、p と q の真理値が一致している場合に真を、一致していない場合には偽を返す演算です。これも何か適当な記号を当てはめましょう。
p = q としましょう。
(4) は (3) の¬になりますので、¬(p = q) とします。
ここまでの結果を表にすると以下のようになります。
(T, T) | (T, F) | (F, T) | (F, F) | 論理演算子 |
---|---|---|---|---|
T | T | F | F | p |
F | F | T | T | ¬p |
T | F | T | F | q |
F | T | F | T | ¬q |
T | F | F | F | p ∧ q |
F | T | T | T | ¬(p ∧ q) |
T | T | T | F | p ∨ q |
F | F | F | T | ¬(p ∨ q) |
T | T | T | T | p ○ q |
F | F | F | F | ¬(p ○ q) |
T | F | F | T | p = q |
F | T | T | F | ¬(p = q) |
T | F | T | T | (5) |
F | T | F | F | (6) |
T | T | F | T | (7) |
F | F | T | F | (8) |
ここで残っているのが(5)~(8)になります。実際には(6)は(5)の否定、(8)は(7)の否定になりますので、(5)と(7)になります。
先程見てきた通り、(5) は p → q になります。
(7) は q → p です。(少し考えてみましょう)
すると、(6)は ¬(p → q) 、(8)は ¬(q → p) とそれぞれ決まります。つまり、(5)と(7)は最後のケースになります。
論理学者達はこの最後のポジションに → という記号を当てはめて「もし...ならば...」(if ..., then ...) という意味を与え、「論理包含(implication)」と命名したのではないかな。
だから、p が偽の時に p → q が真になるという非直感的なことが起きちゃったんじゃないかな。
つまり、最後に残ったところにどんな名前と解釈をつけたらいいか迷ってて、それらしいものにしたらちょっと直感さが薄れちゃった説。
適当すぎですね。ごめんなさい。
最後に表を完成させておきます。
(T, T) | (T, F) | (F, T) | (F, F) | 論理演算子 |
---|---|---|---|---|
T | T | F | F | p |
F | F | T | T | ¬p |
T | F | T | F | q |
F | T | F | T | ¬q |
T | F | F | F | p ∧ q |
F | T | T | T | ¬(p ∧ q) |
T | T | T | F | p ∨ q |
F | F | F | T | ¬(p ∨ q) |
T | T | T | T | p ○ q |
F | F | F | F | ¬(p ○ q) |
T | F | F | T | p = q |
F | T | T | F | ¬(p = q) |
T | F | T | T | p → q |
F | T | F | F | ¬(p → q) |
T | T | F | T | q → p |
F | F | T | F | ¬(q → p) |
正直本当にこんな感じだったのかはわかりませんが、自分はこのように理解すると、「気持ち悪いけど、まぁいいかな」という気分になりました。終わり。
Reference
- How to Prove It: A Structured Approach by Daniel J. Velleman
- Introduction To Logic by Stanford University
仕事におけるコミュニケーションの目的
コミュニケーションの定義
Oxford Dictionariesの定義がシンプルで良かったので、この記事では以下のコミュニケーションの定義を使うことにします。
The imparting or exchanging of information by speaking, writing, or using some other medium.
→ コミュニケーションとは何らかの手段で情報を伝えるもしくは交換すること
コミュニケーションによって何が可能になるか?
定義からコミュニケーションによって以下の2つが可能になります。
- 相手から情報を得る
- 相手に情報を与える
「相手から情報を得る」ことで私たちは情報を収集できます。私たちはコミュニケーションから情報を得ることで、知識を得たり、嬉しい気持ちになったりします。つまり自分に対して影響を与えているのです。
「相手に情報を与える」ことで、私たちは他者に影響を与えることができます。「他者」としたのは、コミュニケーションの相手に直接影響を与えるだけでなく、その相手が別の人間とコミュニケーションをすることで間接的に影響を与えることができるからです。
問題は私たちがコミュニケーション相手に影響を与える理由です。
他者に影響を与える目的
仕事において私たちは以下のように様々な目的を持ちます。
- 会社に貢献したい
- 自分のやりたいことをその会社で実現したい
- スキルを獲得したい
- 昇進したい
- 実績を作りたい
- etc...
こうした仕事の目的を達成するためには、他者の協力が必要になることが多く、目的が大きいほど、一人で達成することは困難になります。
例えば「部門を横断した仕組みを構築したい」ならば、その仕組みに関係のある部署の協力がなければ難しいでしょう。また「昇進したい」ならば、上司、部下、チームメンバーの評価が必要になります。
こうした状況に置かれているのは自分だけではありません。他者も同様に多種多様な目的と手段の構造を持ち、目的達成のために他人の理解や協力を必要としています。
私たちがわざわざコミュニケーションしてまで「他人に影響を与えなければならない」理由がここにあります。
またそれだけでなく、こうした様々な目的が入り乱れている職場では、最終的にどちらも得をするwin-winの結果になることもあれば、どちらか一方だけが得するwin-loseの結果になることもあります。(もしくはlose-lose)
基本的に私たちは、お互いがお互いの目的を達成できる方法、つまり協力の道を探します。しかしどちらか一方でも、そうした方法は実現不可能だと判断した場合、その判断を下した者は自分が勝つ方法を探し始めます。
つまり、お互いがwin-winを目指すことが妥当と判断した場合、コミュニケーションの目的は「協力」になり、どちらかがwin-winが難しいと判断した場合、「他者の操作」や「他者の排除」(裏切り)がコミュニケーションの目的となってしまうのです。
しかも職場には、自分にとっても相手にとっても協力ではなく、裏切りに走やすくなる理論的な構造が存在します。ゲーム理論における囚人のジレンマです。(実態はもう少し複雑な囚人のジレンマの繰り返しゲームです。)なぜ囚人のジレンマになるかというと、(自分と相手の双方にとって)相手を裏切ることで獲得できるリターンが大きくなり、裏切られた側のリターンが大きく減るケースが存在するからです。
まさに社内政治のゲームです。
また、目的によって手段は180度変わります。
協力をコミュニケーションの目的にした人は、相手の理解を十分に深め、自分の意図や目的を無理に押し付けることなく丁寧に説明するようなスタンスを取るでしょう。
一方で排除や操作を目的とする場合、隠れたところでのネガティブキャンペーンや印象操作、仲間を集めてのパワープレイも厭わないかもしれません。
容赦の無いコミュニケーションを実行する人間は確かに存在する
巧みな印象操作で多くの人を味方につけ、無慈悲で容赦のない社内政治を展開した末に、邪魔な敵を合法的に排除した人間を私は知っています。
私たちが仕事の目的を達成するためには、こうした肉食獣から身を守らなければなりません。
彼ら相対した時、どのように立ち回るべきでしょうか?
裏切られた場合どうするべきでしょうか?
具体的な方法としてはどのようなものがあるでしょうか?
裏切り行為から身を護る防御壁を普段から築いていく方法はあるのでしょうか?
こうした論点に関しては今後じっくり考えていきたいと思います。
目的と手段の関係
目的と手段という概念についてシンプルに整理した。
目的も手段も「行為」である
手段は行為だ。また行為には理由があり、その理由が目的である。
目的も行為である。私たちはある目的を達成するために、手段を講じる。
例えば「会社の目的は利益である」という命題も、目的を表す表現としては正確ではない。より正確に表現すると「会社の目的は利益を獲得することである」といった「行為」が含まれた表現になる。
「利益」という名詞だけでは何をしたいのかがわからないからである。
目的と手段はn:nの階層構造を持つ
目的も手段も行為だとすると、ある目的の上位にある目的も行為になる。
この上位の目的からすると、下位の目的は手段となる。この意味で、目的と手段の構造は階層状になることがわかる。(目的と手段の階層構造と何度も書くのは面倒なので、目的構造と呼ぶことにする。)
「会社に行く」という行為を例にとって考える。会社に行く目的は「仕事をする」ための手段であり、「会社に行く」ためには「電車に乗る」という手段がある。
図で表すと以下のようになる。
また、この場合「会社に行く」という目的を達成するための手段は複数考えられる。例えば「電車に乗る」だけでなく、「タクシーに乗る」という手段も考えられる。
逆に、ある手段は複数の目的を持つ場合がある。例えば、「仕事をする」という手段の目的は「収入を得る」や「経験を積む」というような形で複数の目的を持ちうる。
よって、目的と手段はn:nの関係を持つことが言える。
先程の、階層構造の件と合わせたものを図で表現すると以下のようになる。
※ ちなみにこの階層構造は、ロジックツリーではない。
理解とは信仰である
ビジネスマンが理解すべきことは多い。
- 仕事とはなにか?どのような要素があり、何が最も重要なのか?
- 成果を出すために何をすべきか?そもそも成果とは?
- 論理的思考とは?それをどのように使えばよいのか?
- コミュニケーションとは?
- マネジメントとは?
- 効果的なプレゼンテーションとは?
- 目的とは?手段とは?
- 成長するために何をすべきか?そもそも成長とは?
- 責任とは?権限とは?役割とは?
- ...etc
ここに挙げた問いはほんの一例だが、こうした概念や行為から発生する膨大な量の問いに対して、私達は人生を通じて答えを出していかなければならない。物事に対する理解の質はそのままアウトプットの質に繋がるからだ。
また、その人の理解がその人の生き方を形作るからだ。
つまり、理解は人生の構成要素なのだ。
前提
理解について語る前に、この記事で前提にしていることを3つ置こう。
第一に、私達はある物事についての「完全な理解」を得ることはできない。それができるのは神だけである。
神ではない私達ができるのは「理解を深めること」だけだ。もし神が持ちうる「完全な理解」があるのだとすれば、私達ができるのはそれに近づくことのみ可能である。
従って私は「理解する(した)」という言葉を「完全に理解する(した)」という意味では使わない。「理解を深める(た)」という意味で使うことにしている。
第二に、理解をするという時には、「○○について理解する」と表現する。つまり理解には対象があるということも念頭に入れておこう。
この記事では「対象を...」とか「対象についての...」というように、いきなり「対象」という言葉を説明なしに登場させるが、この場合の「対象」は「理解の対象」を意味していることをご理解いただきたい。
最後に、この記事で哲学、心理学あるいは脳科学的な「知」や「理解」について語るつもりはない。あくまで日常生活やビジネスシーンで多少なりとも「使い物」になるように、「理解」という概念の理解を深めていきたいと思う。
理解とは何か?
「ある対象を理解する(理解を深める)」とはその対象に関する論点に対して自分が信じることができる解を得ることである。
ここで言う論点とは、ある概念とその概念に対する質問によって構成される文のことだ。
例えば、「コミュニケーションとは何か?」という文は論点となる。なぜなら、この文は「コミュニケーション」という概念と「何か?(What is)」という質問によって構成されているからだ。
逆に、「コミュニケーションは重要だ」という文は論点ではない(この文は主張または命題)。「コミュニケーションは重要か?」は論点になる。
また「論点の解」とは、論点に対する自分が出した答え(解)のこととする。先程の「コミュニケーションとは何か?」という論点の解として、例えば
「コミュニケーションとは、相手に自分の考えを受け入れさせることを目的とした全ての行為である。」
といった答えを出すことが可能になる。これが論点の解である(この時点ではこの解が正しいと信じられるかはわからない)。
ある概念に対して問いを立て、解を導いたとしても、理解には至らない。理解するためには、その解について十分に疑いをかけ、様々なケースを当てはめながらその解の妥当性を吟味し、信頼に足るかを慎重に、厳しく、批判的に審査する必要がある。
そうした審査をくぐり抜け「信頼できると」判断された解を得ることで、今までゼロだった解が一つ増える。これにより対象についての理解を深めることができるのだ。
よって冒頭の「理解とは、対象に関する論点に対して自分が信じることができる解を得ること」となる。
ここまでが理解の定義に関する説明だ。まとめると、理解の対象に関する論点を立て、解を出し、その解を審査し、受け入れることで理解を深めることができるということである。
ちなみに、こうした理解に至るためのプロセスを「思考」と定義しておく。
理解とは信仰である
自分が出した解を認めるか否かという問題は、最終的には「解を信じるか信じないか」という信仰の問題に帰着する。なぜなら、こうした解が正しいか間違っているかを厳密に証明することはできないからだ。
よって解の審査には大きな自己責任が伴う。なぜなら、審査をくぐり抜けて自分の理解として受け入れられた解は、その後の自分の人生において前提となるからだ。
それはなぜかと言えば、私達は前提を置かなければ、議論を先に進めることができないからだ。
例えば、もし「コミュニケーションが相手に自分の考えを受け入れさせることが目的である」という考え方を受け入るならば、この考え方を前提に、例えば「効果的なコミュニケーションとはどのようなものか?」という論点について考える始めることができるようになる。
逆にコミュニケーションの目的が定まっていないと「効果的なコミュニケーション」を考えることができない。「効果的」とは、目的の達成のために「効果がある」ことを意味するからだ。
前提を置かなければ議論を発展させることができないのは、数学のような厳密な学問でも同じである。
さらに、こうした前提を置くことで、私にとっての「コミュニケーションの見方」が変わる。
例えば、この前提において誰かが私に対してコミュニケーションをしてきた時に、私は「彼/彼女は私に何を要求しているのだろうか?」という視点を持ってしまう。(もしかしたら彼/彼女はそんなつもりは一切なく、私と純粋に仲良くしたいだけかもしれないのに!)
このように、理解とは対象論点の解を信じることであり、前提を置かなければ我々は前に進めない。故に自分の中で自分が信じたものが前提化される。その結果、好む好まざるに関わらず物事の捉え方、見え方が変わってしまうのだ。
私たちは理解が正しいという前提に立たなければ議論を発展させることができず、普段の生活における物事の見方/捉え方/判断なども理解の影響を受ける。
にもかかわらず、理解の真偽は証明不可能であり、ある理解をしたことでどんな影響があるのかもわからない。それ故に、理解するためには信仰が必要になるのである。
理解はこれらの意味で危険な行為だ。しかし理解を得なければ私たちは先に進めない。だから極めて慎重に、厳密に、批判的に解を審査する必要があるのだ。
理解によって得られるもの
さて、こうして得られた理解は私たちにとってどういった便益をもたらしてくれるだろう?
私たちが理解することによって得るもの、それは「意思決定と行動の促進」である。
意思決定には不安がつきものだ。なぜなら世の中は不確実性に満ちており、成功するか失敗するかがわからないのが常であり、一つの意思決定によって自分の人生が大きく左右されるからだ。
意思決定に際し、私たちは迷う。株主、従業員、上司、チームメイト、顧客、市場から「成果を出せ」という強いプレッシャーを受ける中で、迷い、不安に駆られ、それでも様々な事案に対して私たちは意思決定をしなければならない。意思決定をしなければ、行動ができず、成果を獲得するチャンスすらも得られないからだ。
こうした状況下に置いて私たちが意思決定を下すことができるのは、理解という拠り所を抜きにしては難しいのだ。
ある経営者が、「我が社において最も重要な課題は何か?」という論点に対して心底信頼できる解を得ることができれば、その理解を前提に次の一手を打つことができるだろう。
また、あるビジネスマンが「自分に今本当に必要なスキルは何か?それはなぜか?」という論点に対して、本人が完全に納得する解が得られれば、そのスキルを獲得するためのより具体的な戦略を考えることができるだろう。それ以外のスキルに目移りすることもなくなる。
逆に、ある管理職が「自分の部署が今取り組むべき課題は何か?」という論点に対して、中途半端な解しか持ちえないのであれば、その部署の方針は事あるごとに変わり、その結果その部署に所属する人間の時間を大量に浪費し、見るも無残な結果になる未来が見える。
揺るぎない理解に(信仰に)下支えされた意思決定は迷いと不安を断ち切る。
理解は意思決定をする上での障害を取り払うという効果を持つのだ。
一方で理解は行動に関しても私たちを後押ししてくれる。
そもそも、行動とは意思決定の結果生じるものだ。十分な理解から下された意思決定はそれだけで行動を強く支援する。
なぜなら十分な理解もって意思決定をした時点で、以下のような重要な論点に対する信頼できる解は得られているからだ。
- この行動を取る目的は?
- 本当に今の自分に必要なのか?
- なぜ他の手段ではなく、この行動なのか?
- この行動はどういったプロセスで実行すべきか?
- この行動から生まれるアウトプット品質の基準はどうあるべきか?
- この行動ができないならばその理由は何か?
- 何がこの行動を阻害しているのか?その阻害要因を排除するためには何をするべきか?
- この行動を取らなかった場合の結果はどのようなものか?その結果を自分の人生として許容できるか?その覚悟はあるか?
- etc...
このような論点に対して解を出し、理解を深めれば深めるほど、行動しない理由は徐々に排除されていく。結果、行動しない理由を見つけることが極めて困難な状態になりる。
逆に「行動できていない」ということは、その行動を十分に信じきれていないからだ。
人は自分の信じていないもののために行動したりはしない。人は自分の信じたもののため、信じたものに従って行動するのである。
またこうした思考の結果、行動すべきでないという判断に至った場合は、いつまでも未練を残すことなく綺麗さっぱり捨て切ることができる。
理解は信仰である。
信仰は思考から生まれる。
信仰を持って始めて、人は自分の真の行動することができる。自分の人生を生きることができる。
日々信仰を育み、そして自分の人生を生きよう。