理解とは信仰である
ビジネスマンが理解すべきことは多い。
- 仕事とはなにか?どのような要素があり、何が最も重要なのか?
- 成果を出すために何をすべきか?そもそも成果とは?
- 論理的思考とは?それをどのように使えばよいのか?
- コミュニケーションとは?
- マネジメントとは?
- 効果的なプレゼンテーションとは?
- 目的とは?手段とは?
- 成長するために何をすべきか?そもそも成長とは?
- 責任とは?権限とは?役割とは?
- ...etc
ここに挙げた問いはほんの一例だが、こうした概念や行為から発生する膨大な量の問いに対して、私達は人生を通じて答えを出していかなければならない。物事に対する理解の質はそのままアウトプットの質に繋がるからだ。
また、その人の理解がその人の生き方を形作るからだ。
つまり、理解は人生の構成要素なのだ。
前提
理解について語る前に、この記事で前提にしていることを3つ置こう。
第一に、私達はある物事についての「完全な理解」を得ることはできない。それができるのは神だけである。
神ではない私達ができるのは「理解を深めること」だけだ。もし神が持ちうる「完全な理解」があるのだとすれば、私達ができるのはそれに近づくことのみ可能である。
従って私は「理解する(した)」という言葉を「完全に理解する(した)」という意味では使わない。「理解を深める(た)」という意味で使うことにしている。
第二に、理解をするという時には、「○○について理解する」と表現する。つまり理解には対象があるということも念頭に入れておこう。
この記事では「対象を...」とか「対象についての...」というように、いきなり「対象」という言葉を説明なしに登場させるが、この場合の「対象」は「理解の対象」を意味していることをご理解いただきたい。
最後に、この記事で哲学、心理学あるいは脳科学的な「知」や「理解」について語るつもりはない。あくまで日常生活やビジネスシーンで多少なりとも「使い物」になるように、「理解」という概念の理解を深めていきたいと思う。
理解とは何か?
「ある対象を理解する(理解を深める)」とはその対象に関する論点に対して自分が信じることができる解を得ることである。
ここで言う論点とは、ある概念とその概念に対する質問によって構成される文のことだ。
例えば、「コミュニケーションとは何か?」という文は論点となる。なぜなら、この文は「コミュニケーション」という概念と「何か?(What is)」という質問によって構成されているからだ。
逆に、「コミュニケーションは重要だ」という文は論点ではない(この文は主張または命題)。「コミュニケーションは重要か?」は論点になる。
また「論点の解」とは、論点に対する自分が出した答え(解)のこととする。先程の「コミュニケーションとは何か?」という論点の解として、例えば
「コミュニケーションとは、相手に自分の考えを受け入れさせることを目的とした全ての行為である。」
といった答えを出すことが可能になる。これが論点の解である(この時点ではこの解が正しいと信じられるかはわからない)。
ある概念に対して問いを立て、解を導いたとしても、理解には至らない。理解するためには、その解について十分に疑いをかけ、様々なケースを当てはめながらその解の妥当性を吟味し、信頼に足るかを慎重に、厳しく、批判的に審査する必要がある。
そうした審査をくぐり抜け「信頼できると」判断された解を得ることで、今までゼロだった解が一つ増える。これにより対象についての理解を深めることができるのだ。
よって冒頭の「理解とは、対象に関する論点に対して自分が信じることができる解を得ること」となる。
ここまでが理解の定義に関する説明だ。まとめると、理解の対象に関する論点を立て、解を出し、その解を審査し、受け入れることで理解を深めることができるということである。
ちなみに、こうした理解に至るためのプロセスを「思考」と定義しておく。
理解とは信仰である
自分が出した解を認めるか否かという問題は、最終的には「解を信じるか信じないか」という信仰の問題に帰着する。なぜなら、こうした解が正しいか間違っているかを厳密に証明することはできないからだ。
よって解の審査には大きな自己責任が伴う。なぜなら、審査をくぐり抜けて自分の理解として受け入れられた解は、その後の自分の人生において前提となるからだ。
それはなぜかと言えば、私達は前提を置かなければ、議論を先に進めることができないからだ。
例えば、もし「コミュニケーションが相手に自分の考えを受け入れさせることが目的である」という考え方を受け入るならば、この考え方を前提に、例えば「効果的なコミュニケーションとはどのようなものか?」という論点について考える始めることができるようになる。
逆にコミュニケーションの目的が定まっていないと「効果的なコミュニケーション」を考えることができない。「効果的」とは、目的の達成のために「効果がある」ことを意味するからだ。
前提を置かなければ議論を発展させることができないのは、数学のような厳密な学問でも同じである。
さらに、こうした前提を置くことで、私にとっての「コミュニケーションの見方」が変わる。
例えば、この前提において誰かが私に対してコミュニケーションをしてきた時に、私は「彼/彼女は私に何を要求しているのだろうか?」という視点を持ってしまう。(もしかしたら彼/彼女はそんなつもりは一切なく、私と純粋に仲良くしたいだけかもしれないのに!)
このように、理解とは対象論点の解を信じることであり、前提を置かなければ我々は前に進めない。故に自分の中で自分が信じたものが前提化される。その結果、好む好まざるに関わらず物事の捉え方、見え方が変わってしまうのだ。
私たちは理解が正しいという前提に立たなければ議論を発展させることができず、普段の生活における物事の見方/捉え方/判断なども理解の影響を受ける。
にもかかわらず、理解の真偽は証明不可能であり、ある理解をしたことでどんな影響があるのかもわからない。それ故に、理解するためには信仰が必要になるのである。
理解はこれらの意味で危険な行為だ。しかし理解を得なければ私たちは先に進めない。だから極めて慎重に、厳密に、批判的に解を審査する必要があるのだ。
理解によって得られるもの
さて、こうして得られた理解は私たちにとってどういった便益をもたらしてくれるだろう?
私たちが理解することによって得るもの、それは「意思決定と行動の促進」である。
意思決定には不安がつきものだ。なぜなら世の中は不確実性に満ちており、成功するか失敗するかがわからないのが常であり、一つの意思決定によって自分の人生が大きく左右されるからだ。
意思決定に際し、私たちは迷う。株主、従業員、上司、チームメイト、顧客、市場から「成果を出せ」という強いプレッシャーを受ける中で、迷い、不安に駆られ、それでも様々な事案に対して私たちは意思決定をしなければならない。意思決定をしなければ、行動ができず、成果を獲得するチャンスすらも得られないからだ。
こうした状況下に置いて私たちが意思決定を下すことができるのは、理解という拠り所を抜きにしては難しいのだ。
ある経営者が、「我が社において最も重要な課題は何か?」という論点に対して心底信頼できる解を得ることができれば、その理解を前提に次の一手を打つことができるだろう。
また、あるビジネスマンが「自分に今本当に必要なスキルは何か?それはなぜか?」という論点に対して、本人が完全に納得する解が得られれば、そのスキルを獲得するためのより具体的な戦略を考えることができるだろう。それ以外のスキルに目移りすることもなくなる。
逆に、ある管理職が「自分の部署が今取り組むべき課題は何か?」という論点に対して、中途半端な解しか持ちえないのであれば、その部署の方針は事あるごとに変わり、その結果その部署に所属する人間の時間を大量に浪費し、見るも無残な結果になる未来が見える。
揺るぎない理解に(信仰に)下支えされた意思決定は迷いと不安を断ち切る。
理解は意思決定をする上での障害を取り払うという効果を持つのだ。
一方で理解は行動に関しても私たちを後押ししてくれる。
そもそも、行動とは意思決定の結果生じるものだ。十分な理解から下された意思決定はそれだけで行動を強く支援する。
なぜなら十分な理解もって意思決定をした時点で、以下のような重要な論点に対する信頼できる解は得られているからだ。
- この行動を取る目的は?
- 本当に今の自分に必要なのか?
- なぜ他の手段ではなく、この行動なのか?
- この行動はどういったプロセスで実行すべきか?
- この行動から生まれるアウトプット品質の基準はどうあるべきか?
- この行動ができないならばその理由は何か?
- 何がこの行動を阻害しているのか?その阻害要因を排除するためには何をするべきか?
- この行動を取らなかった場合の結果はどのようなものか?その結果を自分の人生として許容できるか?その覚悟はあるか?
- etc...
このような論点に対して解を出し、理解を深めれば深めるほど、行動しない理由は徐々に排除されていく。結果、行動しない理由を見つけることが極めて困難な状態になりる。
逆に「行動できていない」ということは、その行動を十分に信じきれていないからだ。
人は自分の信じていないもののために行動したりはしない。人は自分の信じたもののため、信じたものに従って行動するのである。
またこうした思考の結果、行動すべきでないという判断に至った場合は、いつまでも未練を残すことなく綺麗さっぱり捨て切ることができる。
理解は信仰である。
信仰は思考から生まれる。
信仰を持って始めて、人は自分の真の行動することができる。自分の人生を生きることができる。
日々信仰を育み、そして自分の人生を生きよう。