愛のサラリーマン

思考に情熱を、理解に信仰を、意思決定には魂を

私たちはどこまで当事者意識を持つべきか?

今日は暴論を展開する。

 

私が20台後半の時に勤めていた、とある大手のIT企業では「当事者意識」が重要な価値観として会社のカルチャーに根付いていた。

 

私は当事者意識を持ち、職場にある様々な問題を発見し、周りが不平不満、文句を言う中、愚痴一つ言わずにそれらの問題の解決策を提案をした。

 

提案が受け入れられない場合もあったが、指摘された甘い点、不足している観点、答えられなかった論点を補強し、何度も提案を繰り返した。

 

私は上司から重宝された。彼らが手を付けない問題に切り込み、私が問題を解決するごとに組織は目に見えて改善された。

 

私は何事も自分事化して問題の解決に取り組んだ。そんな姿勢が評価され私はトントン拍子で昇進した。

 

成功体験にすっかり気を良くした私は、その後の仕事で当事者意識というものを重要視し、何事も自分で解決していこうという態度を強く持ち、部下や同僚にも求めた。

 

しかしその後、私は当事者意識の限界を知ることになる。

 

リスクとリターンと信頼

会社における立場が上になればなるほど、問題はチームで扱えるようなものではなくなり、経営や会社全体の問題となる。

 

問題が大きくなればなるほど、組織に対する影響は大きくなる。

 

影響が大きいということは、問題が解決できた時のリターンも大きくなるが、失敗した時のリスクや、解決策の副作用によるリスクも大きくなるということを意味する。

 

また問題解決策を承認するか却下するかの判断は、リスクとリターンの評価の結果決まる。

※1 効果が出るまでのリードタイムや必要な人員、実現可能性なども考えられるが、それらはすべてリスクに含めてしまおう。

 

※2 提案の承認がある会議体で行われ、かつその意思決定に影響を持つ人が複数人いる場合、意思決定者間の利害関係も意思決定に影響する。ビジネス上の意思決定は決して純粋なロジックだけでは決まらない。会社は無菌室ではない。

 

リスクとリターンの評価の結果、提案が承認される場合もあれば却下される場合もある。

 

承認されれば何も問題はない。そのまま突き進めば良い。きっと信念に裏打ちされた良い仕事ができるだろう。

 

しかし却下された場合は問題だ。当事者意識の高い人ほど、会社を良くしたいと思っている人ほど、却下された時のダメージは大きくなる。

 

結論が違うということは前提が異なっているか、前提が合っていても論理が異なるということだ。

しかし基本的には前提が間違っている事の方が圧倒的に多い。ほとんどの意思決定者は論理的である。

 

だから真面目で誠実、当事者意識の強い者は相手の前提を確認して、どの前提が結論の違いを生み出しているのかを探ろうとする。

 

しかし、リスクとリターンについては不確実なものなので、明確な真偽をつけたり、評価することはできない。そこには意思決定者の直感、経験、認知バイアスに大きな影響を受ける。

 

頭の良いあなたは意思決定者の認知バイアスに気付き、そのことを指摘するかもしれない。しかし多くの意思決定者はその指摘を素直に認めようとはしない。認めたような、指摘に感謝するような素振りは見せるかもしれないが、一度下した決定を変えることはないだろう。

 

また、単純にあなたがその仕事を任せるに足る信頼を獲得できていないということも却下される原因になり得る。問題が大きければ大きいほど、より多くの信頼を持った人間ではないと任せられないからだ。

 

こうした複雑怪奇な意思決定の裏側をハッキリと認識することは難しい。意思決定する側も一つの意思決定に対して提案者が納得するまで説明することは基本的にしない。したとしても本音かどうかはわからない。

それに時間もないし、他にやるべきことはある。

 

つまり「なぜ却下されたのか?」という根本的な原因を提案者が知ることは難しいということだ。

また、自分が出した案より優れた対案を却下した側が提案することも基本的には無い(あればまだ救いがある)。あなたほどその問題に対するスペシャリストはいないのだ(逆にそのくらいでなければ当事者意識があるとは言えないだろう)。

 

こうなった場合、提案者はどうすれば良いだろうか?

 

任せてもらえるまで信頼を積み重ねるべきだろうか?

 

問題を放置することのリスクが大きくなるまで待つべきだろうか?

 

(自分が全く信じていなかったとしても)意思決定者の気持ちを汲み取って別の提案すべきだろうか?そしてそれを実行すべきだろうか?

 

この場合、意思決定者の好きなように提案することの意味はなんだろう?既にやるべきこと、そのやり方、使える予算、使える時間、人員、撤退条件等々に関して、既に意思決定者の中で結論が出ているのであれば、私たちが提案する意味は無い。それを意思決定者がそれを従業員に指示すれば良いだけだ。

 

「当事者意識なんて要らないんじゃないか...」

 

こんな思考が提案者の頭をよぎる。

 

また「権限委譲」とは本来こうした問題に対処するべく行うものだ。責任と権限を与え、その中で好きなようにやる権利を経営者以外の人間に与えるのだ。

 

しかし権限委譲は難しい。厳密に権限と責任を定義できている企業など(多分)ほとんど無いし、ある程度できていたとしてもグレーゾーンは残っている。

例えば、使える予算や時間などはビジネスの状況に応じて刻々と変わるものだ。ドキュメント化できるものではない。

 

価値観、好き嫌い、尊敬

こうした思考の中で、提案者は「意思決定」に絡む不確定要素を目の当たりにする。

 

権限委譲も無い、重要な前提もわからない、意思決定はロジックだけではなく社内の人間の利害関係、感情も絡む。

 

こんな中で当事者意識を持って問題の解決策を提案するということは、どういうことなのだろうか?

 

それは意思決定者が単純に好むことを提案することに等しいのではないか?そこに個人の考え、信念など持ち込むスペースなど無いのではないか?

 

しかしこうした論理や利害関係だけが問題ならまだマシだ。

 

問題は「好き・嫌い」や「価値観」などの根源的な部分に関する違いを認識してしまった場合にある。

 

好き・嫌いという極めて根源的な部分に関しての違いを認識してしまった場合、どうすれば良いのだろうか。

 

例えば、仕事やコミュニケーション、目標に対するスタンス、その人の性格、誠実さ、価値観...。これらに共感できない場合どうすれば良いだろうか?

 

あなたは嫌いな人、尊敬できない人のために、その人が「好む」提案をし続けなければならないのだろうか?

 

好きなこと、できること、役に立つことが交わる部分を仕事にしようとはよく聞く。

また、嫌いなこと、できないこと、役に立たないことではない部分を仕事にしようということもよく聞く。

 

しかし、根本的に尊敬できない人に奉仕するということ、あるいは納得できない意思決定を受け入れて仕事をすることは割り切るということであり、それは当事者意識を持たない領域を持つということである。

 

しかし「当事者意識を持て」という人間はこうした矛盾を理解していない。

 

そして当事者意識を強く持つ者は、こうした矛盾を前に途方に暮れてしまう。

 

しかし会社で働く上でこうしたことは当たり前のように起きる。

こうしたことに文句を言うのは、ボクサーが顔を殴られることに文句を言うのと同じくらい馬鹿げている。「好き嫌いで仕事をするな」ということである。

 

もしこうしたことが嫌ならば、自分で会社を作るしか方法は無い。

 

仕事に対して絶対的な価値観が必要である

こうした思考を経て我々が考えなければならないのは、「何を拠り所に仕事をするべきだろうか?」という問いである。

 

それは、どんな状況下にあってもその中で最大のパフォーマンスを追求するような徹底的なプロフェッショナリズムでも良い(割り切り型)。

 

逆に、どんな状況下にあっても自分の信念を貫く圧倒的な当事者意識でも良い(割り切らない型)。

 

回避不可能な矛盾や理不尽に挑み、今後も働き続け結果を出すためには、何かしらの拠り所となる価値観が必要だ。

 

考える人ほどいずれ問題に直面する。何かしらを拠り所にしなければ、辞める辞めないの瀬戸際に立たされた時、自らが納得した判断を行うことはできない。

 

── 私にとっての仕事における絶対的な価値観とは何か?

 

私はまだ答えが出せないでいる。