「お前はどうしたいのか?」が問われている
人は誰しも自分が信じているもの(以下信念と呼ぶことにする)がある。
信念は仕事においては以下のような形で表現される:
- 我々は○○ すべきだ・しなければならない
- 我々は○○すべきでない・してはならない
- 我々は○○を××のようにすべきだ・しなければならない
- 我々は○○を××のようにすべきでない・してはならない
そして、多くの人は自分の信念と反する発言や行為を見ると嫌悪感を覚える。
この時、信念が強ければ強いほど、抱く嫌悪感も強くなる。
さらに、十分に強い信念に反する行為を他人に強制されると、人は激しく抵抗し、抵抗が無意味であるとわかると絶望する。
一方で、理解は信仰であるから、信念は物事を深く考えるほど強くなる。考えるほど対象に対する理解が深まるからである。
理解は高いアウトプットを出すためには深めなければならないが、時として危険なのだ。
また、我々にとって「働くこと」は何かしらの目的を達成するための手段である。
それは「収入を得ること」かもしれないし、「スキルや経験を獲得する」ことかもしれない。
その内容はさておき、我々は「働くこと」に多数の目的を持たせている。
なぜか?
仕事は1日の3分の1もの時間を使う。よって、そこにたくさんの目的を紐づけたほうが時間を効率的に使えるからだ。我々サラリーマンは戦略的なのだ。
しかしその目的が具体的で多目的なほど、目的の達成が阻害される可能性が高くなる。
なぜか?
「具体化」とは、目的にたくさんの制約や条件を付けることだ。だから「目的がより具体的である」とは、より厳しい条件があるということであり、より満たすのが難しいということだからだ。
そして人は目的を阻害されると嫌悪感を抱く。
その目的に対する想いが十分に強いと、嫌悪感は「嫌い」を超越して絶望に変わる。
我々サラリーマンは戦略的であり、成果にコミットする人種である。
だから1日という限られた時間の大半を費やす「仕事」からより多くの実りを得るために、仕事を多目的化し、それぞれの目的を具体化する。
また、日々の業務で高いアウトプットを出すために、対象について深く考え、試行錯誤し、より深い理解に到達するために日々励む。
しかし、そこには絶望という危険が潜んでいる。我々の努力は我々をより絶望へと近づけるのだ。
前提として、会社の目的は我々従業員の目的より優先され、また会社は個人に対して業務命令権を持っている。
会社は「やること(行為)」と「そのやり方(方法)」に関して自由に決めることができる。一方で、それらが個人の信念と合致しているとは限らない。
これはつまり、自分の信念と目的を侵犯することを無条件で会社に許可しているということである。
意思決定者の信念と自分の(強い)信念とが合致しなかったり、自分の目的を阻害する場合、会社の判断は個人を絶望させる。
これは恐ろしく感じてしまう。なぜなら私は結構頑張って考えちゃうタイプだからだ。
絶望は避けられないのだろうか?
仮に絶望しない人がいるとしたら、その人は信念を侵犯されても、目的を邪魔されても、朝ウンコする時のような精神状態を保つということである。
これは賢者のように思える。私には今のところ不可能に感じる。
仮に絶望してしまったらどうすれば良いだろう。
我々は奴隷ではないのだから、絶望から逃げることはできる。
しかし、絶望を乗り越えてでも得られるものがあるかどうかは、絶望を乗り越えてからでないとわからない。
絶望に際して我々は問われている。
「お前はどうしたいんだ?」と。